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みのり会TOP 地域安全(1) 小高坂地区'07〜 子育て

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 高知市小高坂地区町内会連合会    防災組織

2008.12.12高知新聞 (財)和光霊園(上町4丁目)来春にも分譲へ 小高坂山で霊園開発;平成10年に宅地開発を許可→業者側の事情で頓挫後土地取得。<里山保全条例・平成12年4月施行;緑地保全のため、指定地区秦山(中秦泉寺など)、葛島山(葛島2丁目)の2箇所>


平成18年度(19年3月22日)小高坂小学校 卒業式
 

平成18年度の卒業生徒たちの思い出:自作Tシャツ着用の運動会・モンゴルからの留学生・香北合宿のカレーの味・チボリ公園厳島神社など修学旅行・・・山あり谷あり・出来ないとあきらめないで歩き続けていれば道を見つけられる・・(岡崎市長)強くて優しい人に・校訓のやる気元気根気・・(前田校長)、勉強は難しくなり・行事も多くなるが力をあわせてる満足感を持つことの出来る中学生として胸をはって入学して来てほしい・・(城北中代表門脇芽衣子さん)、体も心も大きく立派に育ってくれた・困ったときに相談したり、相談してもらえる人に・・(秤屋PTA会長)


平成19年 1月高知市いきがい課資料 小高坂地区65歳以上26.6%(前年度比1%増)

2006.12.26高新 越前町新聞 --昭和40年、高知市の土地区画整理事業で、北越前町・南越前町となった後、昭和57年に山の端町の一部などが加わって現在の越前町1、2丁目となった。--町内会会計一筋30年横山博史さん(67・--私の頭の中で出来る数字の計算なら、これからも引き受けます。人のお世話をするのは、きらいなほうじゃないんです)。人の流れ変えたい・越前町商店街新港組合理事長山本雄一さん(58・--父がここに鮮魚店を構えたのは昭和23年。商店街も前はわんさか人が来よった。昭和30.40年ごろがピークやろうかねえ。--この10月に商店街の東西の通りの一方通行規制が(深靴履いて・何日も走り回って)解除になった(人の流れが変わるかもしれん)--いまの商店街にのこっちゅうお店は、自慢の逸品がある所ばっかり--横浜から毎日通ってくれるお客さん--それを磨いていくことが--全体の活性化に繋がる--)。87歳花子さんと娘二人・なき夫の味守る(仕出しの店「古川」を越前町に構えて45年、変わらぬ自慢の料理を提供し続けている)・鮎の甘露煮・卵巻きずし(すし飯・エビのおぼろ・かんぴょうのアマ煮を熱い卵でくるりと巻いた)。

2006.12.12高新 声 歴史地名「大高坂」は「おおたかさか」「おおだかさ」「おおたかさ」か?--「大高坂」が地名として日常的に使われていたのは鎌倉末期から江戸初期まで。「おおたかさか」のルビは明治以降。高知県の地名(平凡社)・日本地名大辞典高知県(角川書店)は「おおだかさ」。平尾先生・山本先生・横川先生とも「おおだかさ」または「おおたかさ」。

平成18年度 小高坂地区社会福祉協議会研修会 12月1日午後6時〜9時・小高坂会館 「元気で長生きするために」
講師 村山良彦先生 43歳・平成元年東邦大医学部(旧帝国女子医専)卒・平成12年医学博士(慶応大医学部)村山外科副院長、日本外科学会および日本消化器内視鏡学会認定専門医・日本医師会認定健康スポーツ医・(財)日本体育協会公認スポーツドクター・サッカー(する・観る・指導する)、「元気に長生きしたい」その理由は?、何歳まで生きられるか?世界の最高齢者は何歳?、日本国民の平均寿命は世界第何位?、その立役者は?(答えのヒント例;国民皆保険=NHK12月3日皆保険制度特集予定=と日本の文化)、日本人の平均寿命?、死亡原因は?(ガン・心臓・脳、たばこに肉食、年3万人の自殺・8,000人の交通事故・7,000人のお餅などでの窒息死)、その対策は?<わが国の健康達成度・医療の平等性に暗雲、食生活・地域社会のあり方・自然食品・危険一杯シュレッダーetc.>、死の準備として今出来るのことは?、昔の日本の習慣・考え方・文化を取り戻そう、今の子どもたちには高齢者の方々の力が必要。会後・親睦会。


小高坂市小学校 卒業式 2006.3.23 卒業生61名;総数10,206名 校長式辞「〜自分が居るだけで、その場の空気が和らぎ・安らぐ〜くじけず・自分をはげませ〜来年からは・あこがれの中学生---」。高知市長祝辞(印刷)「〜皆さんと同じ12歳の頃の龍馬は、決して目立った存在ではありませんでした。〜自分の夢を持ち〜たくさんの人と力を合わせ、さまざまな困難にも負けず〜〜皆さんも、自分の可能性を信じ、努力〜出会いを大切に〜有為ふぃな中学生生活〜」。教育長祝辞(印刷)「夢の実現〜これまでの出会い、これからの新しい出会い〜」。交通安全会議小高坂地区安全会議メッセージ(印刷)「中学生になると自転車を利用する機械が多くなる〜交通ルール〜交通事故〜相手の立場を考え『ゆずり合いの心』〜」。
 
未来に向かって歩き始めよう はばたこう明日へ 青い空のかなたへすすめ 無限の夢を抱きながら 翼ひろげ飛んでゆくんだ つらいこと吹き飛ばし 生きてゆこう。

 2006.3.26 高新  −− 25日都内で文部科学省のフォーラム---パネルディスカスで茨城県PTA連合会の会長「子どもには夜10時以降携帯電話を自室に持ち込ませない。子どもの携帯電話の通信記録をみることが出来る親子関係を作っておくべきだ---」


(2008年ごろか)現在の小高坂地区17町内会・2自治会(八反団地・大学官舎)
 小高坂小学校区と連合町内会、あるいは民生委員とか保護司関係等の地割とはやや異なる。区民運動会では、小学校区で南万々と宝町をふくむ。小高坂まつりは、子供会活動のことで井口町が入る。若一王子宮の巡行は平和町が入る。平和町が入る。高知県の南海地震による揺れ・液状・津波・火災の被害世帯数人数見込みの地割では、大街コード07小高坂には、井口・平和・三の丸・宮前・北八反・宝の各町をいれている。それぞれに、経緯があるだろうが、区割り(地割り)はそれぞれ異なっている。平成16年6月1日・高知市による小高坂算定基礎世帯数は3,603世帯(被保護・準困28%)

地区内の各種団体 小高坂地区各種団体連絡協議会、小高坂地区地域安全推進協議会、小高坂消防分団後援会、小高坂消防分団、日赤小高坂分会、小高坂体育会、高知市老人クラブ連合会小高坂ブロック会、小高坂地区民生自動委員協議会、小高坂校区交通安全会議、若一王子宮総代会、小高坂振興会、小高坂地区社会福祉協議会、小高坂小学校区青少年育成協議会、保護司会城北分区、小高坂地区町内会連合会、小高坂小学校PTA、小高坂会館運営員会、小高坂地区人権啓発推進委員会、

トーヨースーパーの建物の北側の細道と・西側コンビニSPARの南側の細道を東西に引いた(元の旧道)線が;南北を別ける境界;いまも生活に・町内会活動に生きている。南北の旧メイン道路は、細木病院東側→旧片岡酒店→池沢たばこ→大黒整骨院→屯所→北へ。小高坂会館は旧小高坂村役場で、北への通路(城西中学校西の塀沿い)・三浦様のお家との間は戦前の道路幅のまま。



    

<(歴史・一口話・エピソード)>

土佐藩政時代の高知城下町の災害の一例 仁生会創立65周年記念 市民公開講座記念誌より抜粋 山内豊功(土佐山内家第19代当主
寛文8年、1668年の記録に、火事から城下町を守るために・・火消し番の勤務を(従前は10月から正月まで)通年の勤務に拡大・・侍屋敷間の枯れ草の生えた藪を禁止し緑の樹木を植えさせ、・・屋根の上に水桶を置く態勢を義務付け、・・風吹く際には外出を禁止した。また風が吹く際には「「寝ずの晩」を義務付け。・・高知新聞社と五藤家のやっている冨士書房の間にある南北の通りが蛤通り(火事が起きたことにより口が開いた=元禄11年の大火までは屋敷地であったが、人が逃げる際の道筋が無く、被害が拡大したことを教訓としてこの通りを作った。そこでできた町を蛤町といったようだ・・)。

貞享3年、1686年の記録では、それまで包みの高さが2間(1間=1.8m)、幅が五間、長さが1576間(3km弱)を、貞享3年に、高さを2〜3尺高めようと、幅も2間広げて、さらに根石(堤の基礎に据える石)を整備し直した、・・堤の管理のため、丁場(担当場所)を決め、鏡川沿いに11箇所設定・・現在ところどころに碑文が建っているが、碑文と碑文との間がひとつの丁場で、大雨ごとにすぐ出動・・。

1996高知市観光課発行・土佐観光ガイドボランティア協会編「高知市北部・西部ガイドブックP63〜」
市内を西から東に流れる江の口川から北の部分が、旧小高坂村である。北は旧久万村、東は江の口村に接し、西は小高坂山の丘陵地となっている。”
小高坂山の南側、現在の宮前町のあたりに”政所屋敷”、”という表示があり、長宗我部地検帳には現在の宮前町に該当するあたりに”政所畠”と表示した9筆の土地が記されている。西にあった井口城との関係からみて、このあたりに井口城主であった井口勘解由(かげゆ)の政所があったものと考えられている。
 高知城の築かれた大高坂山に対して、小高坂地区には、中高坂山・小高坂山があった。現在の桜馬場の南部のあたりにあった中高坂山は、高知城普請のときに山を取り崩して、三の丸などの造成に使用したといわれ、そのあとに藩主山内氏の一族をまつる円満寺が建立されていた。
 村の東部分は江の口川をはさんで郭中につながっており、川に沿って南北に長く馬場が造られ”桜馬場”と呼ばれていた。城下町の発展ととtもに次第に町が形成されて、高知城の築城奉行百々越前にちなんだ越前町、中村3万石の山内大膳亮にちなむ大膳様町(現大膳町)・小高坂西町などが生まれている。そして井口・江の口・潮江などとともに”城下4ケ村”として、罰を受けたものの禁則の範囲にくわえられるなど、城下町に順ずる扱いとなっていた。
 この地区には国学者谷垣守・真潮親子・自由民権家植木枝盛の邸跡があり、また幕末に活躍した弘瀬健太・池内蔵太・望月亀弥太などの志士が出ている。
小高坂村は昭和2年(1927)高知市と合併し、現在は旧井口村の一部井口町を含めて小高坂地区としている.--。
ずっと下を参照;<地区内の名所・観光スポット>に続く--

昭和46年の高知市編纂の高知市史(中巻)477頁では、小高坂は越前町、桜馬場、大膳町、西町、北町、後町、茨木谷、唐津谷、新屋敷、宗善寺谷、宮の前、西谷、中地、森の下、山の端の小字に分かれる。大高坂山に対称される小高坂山をひかえて成立した集落であって、かってその中間に中高坂山があったことが伝えられている。戸数539戸、人口2,906人。越t膳町は築城奉行百等越前が開いてその家臣の住居としたしたところで、大膳町はもと大膳様町と呼ばれた。中村3万石の領主山内大膳亮(豊明)の居宅があった。桜馬場は寛文元年(1661)新設の馬場で両側に桜の木を植えたから。字名に谷の多いのは小高坂の地勢にちなんだのだろう。小高坂には寺が多かった。大きい規模の寺も明治3年廃寺跡が砲術練習場に成ったところもある。」寺町は新屋敷にあって、宝永地震で紺屋町・新市町・浦戸町・蓮池町・石立からも移転してきた。維新後はみな廃寺となり、一時兵隊の屯所、のち、山田町の牢舎を移して徒刑所とした。現在の小津高校所在地である。小高坂山は潮江山とならんで有名。無名人の墓が多く、思想家植木枝盛の、東京青山から分骨された墓は有名である。

桜馬場 <城西公園西入り口(二つある南側のほう)付近の説明板>高知城西大門から西に江ノ口川をへだてた対岸に河原があり、寛文元年(1661年)その一部を埋め立て馬場とした。桜を植えたので桜馬場と名づけられた。藩政初期には桜馬場の西に浄土真宗の圓満寺があり、この地に橋がかけられた。この橋は後世、寺の名にちなんで圓満橋と称していた。その後この橋は桜馬場南端に移され、現在の円満端となっている。

現在の桜馬場の南部あたりにあった中高坂山は、高知城普請のときに取りくづして三の丸などの造成に使用したといわれ、そのあとに藩主山内氏の一族をまつる円満寺が建立されている。


以下、高知市史 大正9年初版;大正15年改定再販の復刻(昭和48年9月)<KK名著出版>。昭和33年版・46年版の高知市史<高知市発行>より抜書きしたもの

元土佐郡の上町・高知市街・南街・北街は明治22年合併し、高知市として発足。大正期に江の口・旭・鴨田・潮江を合併;西に朝倉村。北は初月・秦・一宮。南に長濱村。東は高須、五台山に接することとなる。

--鏡川は水清冽にして鏡の如く溝渠を設けて市内に引水す、北部の江の口川、下町の堀川とともに水運の利あり---官公署の多くは高知公園の周囲にあり、その他憲兵分隊は中島町、税務署は升形、専売局は九反田、兼営水電変圧所は江の口--

上古の高知---水陸の分界は大津の港・介良・稲生の東〜潮江の高見・天満宮の西・鴨田・朝倉(朝倉に男女の港ありて此所に網引きせしこと古歌にみえたり)。朝倉から北、山麓を東へ引き回して久万・薊野・一宮村・斜めに東南大津に至る内海を抱擁して、南、浦戸港に通ず。大小多数の島嶼の散点すあり。
五台山(大島)・洞ケ島・玉島・葛島・桟島の内海七島と称す。当初の大高坂山は中高坂に連なる半島で、独立した孤島ではなかったもよう。

9世紀;和気氏の私墾田である土佐郡高坂郷久万は浦戸湾頭の低湿地が開発された土地。室町時代の土佐の中心は香美郡田村郷(田村庄)であるが、周辺に荘園として開発されてゆく。土佐郡5郷も高坂郷をのぞき(一宮・朝倉・神田・鴨部・潮江等)荘園化されいる。地名は領家(寄進を受けた名義上の所有者)の起源を持ち、各郷にそれぞれ有力な豪族が成長する。ただし、藤原氏の幡多・安芸、加茂神社の津野、熊野神社の大忍などのような遠国型の大規模荘園はなく村落単位の小規模なものであった。
小高坂村には若一王子宮(大高坂村には熊野神社)など多数熊野神社はあるが、熊野の荘園は伝えられていない。

荘園の開発領主は生産に励み・国司に取り入り国府の下僚や郡司に任用され、あるいは権門に庇護を仰ぎ荘官に・もしくは在庁官人に任ぜられ国司の任務を代行。成長。国衙支配は印の支配に移って行く。

10世紀はじめの高坂郷(のちの大高坂郷)は高知市の核心地域で、大体現在の鏡川以北、久万川以南・比島を通る南北線以西・枡形ー江の口川ー小高坂以東の地域のようである。通説のように土佐日記の頃まで高知市街地が海であったのではなく、西半・高知公園東縁までは開拓されていた。通説の人口は当時8千人(土佐の国43郷6万人の約8分の1)。<奈良時代の人口は5〜600万人>。10世紀承平天慶の乱後、紀貫之は土佐日記に海賊の報復を恐れているのを伝えている(室津別府が騒擾・挙兵して2年後に貫之は土佐を引き上げている)

10世紀;清和源氏・桓武平氏は院政に取り入りつつ・武門の棟梁に成長・在地の実情に通じた実力者を武士団として統一を目指す。

12世紀;土佐は平教盛の知行国となる。一族の入部はあったかもしれない。

13世紀;杓田村(高坂・鴨部・朝倉郷の交界が開発されていて、(56町余の屋敷田畑;長宗我部地検帳、帰化人末裔・)長宗我部氏の一族大黒氏が串田杓田を領すとある。併行して鏡川三角州末端の開発が進行したのではあるまいか。高坂郷は地頭大高坂氏が大高坂山を中心に鎌倉時代に発展する。

勘合船の航路は堺・室戸・中村・坊ノ津経由であった。

小津鏡川港は良港。国府が高知市より離れて遠く偏在せしは、地勢上実に自然の結果なり。南北朝時代(室町初期1336〜1392の60年間;鎌倉幕府滅亡に続く建武の新政の失敗に乗じ叛乱)に、大高坂城に南朝拠り古戦場となる。関係した将兵は安芸〜須崎。大高坂城に対抗した武家方の「安楽寺城」は高知市枡形説と久万説に分かれる。

浦戸には、スペイン船サン・フェリペ漂着後231年を経て文政10年(1827)正月7日江南船漂着(この間、土佐には11回目の漂着)。筆談。

南北朝より約250年後、天正16年・長宗我部元親岡豊の居城を大高坂に移し城下の沼沢を埋め市街を開くも洪水堤を決して士民を苦しめるので、3年後再び居城を浦戸に移す。元親の時代;秦泉寺城・井口城・神田城・石立城・万々城主には吉松氏(降伏した国人で秦泉寺から万々に転封)を配置。

大高坂は再び寒烟荒涼の廃地として残さるること10年。山内一豊居城を大高坂に卜し百々越前に命じて築城の設計をなさしめ地名を河中山のち洪水の害で河中を忌み高智山と号した。築城は7年を期限として幕府の許可を得、夫役の換算は酒・醤油・酢・油は供給を大阪に仰ぎ、以外は近在の産地より出品。石材は浦戸城から船で江の口に運び・ほかは久万・万々・神田・潮江・朝倉から、材木は久万・万々・秦泉寺・円行寺・一宮から。・

慶長6年山内氏土佐入国、郭中は大川筋全部と江の口小高坂の一部に及ぶ。以外に庶民を移住し町方という。明治4年8月、郭中の称を廃して高知と称し市民雑居して自由に商工業を営むに至る。

元禄11年10月6日正午より北奉公人町より出火。8代豊敷公の享保12年2月1日越前町より出火、桜の馬場から二の丸・三の丸を焼く。百々越前から120余年、同名の越前町からの出火であった--(永国寺町・大川筋・愛宕街・京町・種崎街・農人町・山田町・鉄砲町まで延焼。幕府の許可を得て、奉行深尾帯刀が普請(孕山、浦戸、諸木から石材を採る)。元禄15年12月蓮池の火災、10日後に浦戸町火災・恐らくこの難民救済のために、小高坂に「お救い小屋」が出来た・元禄16年2月上旬・2間半に八間、又仮家十四、五間御建、粥を御たかせ御救被也。板垣氏自家雑記にあり・ほかには徴すべき文献なしとのこと。この御救小屋は宝永2年(1705)長濱に移転(享保に十三棟増設・天明と明和には存続の記録あり)

文化・文政のころの、小高坂居住の郷士の名籍はつぎのとおり;岩目地恒蔵、西内久助、岡田十左衛門。城下町は武家の郭中屋敷と町家で形成されていたが、周辺を近在(城下近在)と称し郡奉行の支配下。井口・小高坂・江の口、潮江であり、後世久万・万々・下知・秦泉寺を加えたと言われている。享保元年(1716)小高坂270戸920人。牛馬14、地高370石。

尾戸焼 小津に釜があり、17世紀仁清の門下難波の陶工久野某がまねかれ、5年間従事、その門下森田・山崎が従事文政3年釜の能茶山移転が命ぜられ能茶山焼きに改まる。

陸路の交通 農人町の松ヶ鼻に番所が東方からの出入りを監視・本町筋の西端思案橋・山田町の橋畔には北からの出入りを監視;三番所とよんだ。江の口の百軒町に送番所があり、昼夜当番15名が交代で詰める。小高坂村は月の20日晩7ツ時より21日晩7ツ時まで:農民の負担。地の石数により秦泉寺村6日・神田村5日等割り当てられていた。城下町には駄賃制度があり寛永年(1749)には賃送之定が公示。どこそこへ馬1ぴきに馬子がついて何分何厘とか駄賃がいくら、任即賃金がなんぼと規定---。江の口から布師田、中島、物部、岸本、和食、安芸、奈半利、野根、甲浦まで22里半の道程の運賃銭は駄賃17匁1分8厘・人足賃金が11匁1厘---。送り番所は江の口送番所で公用文書・便状の逓送、報告すべき内容により「笹送り」「急送り(餓人救米・盗賊・火災・上方借金返済期限満了紹介等--)」「時付送り(奉行仕置役大目付他の役場用状--)」「昼夜送り(山・国産方などの用状)」と区別。

宝永元年(1704)小高坂から出火:郭中、上町焼失600軒。後述の享保の大火など、大火は13〜14件(20年に1回)。消防組は御火消しと町火消し(町内各戸からの出銀)のふたつがあり、前者は官設で2つ(細工町・水通町)、後者は町方で3組(北・南・西の三組)。北は白地に紺で北組と6尺四方・薄浅黄に紺で南組の大幟・紺地に白で西組と染め抜く。各組人夫260人の半分は家役(鳶口・熊手・梯子等)、半分は水役(水籠・水溜・釣瓶)=交代か不変かは不明。各町庄屋は革羽織・木綿半襟に紺と白との横筋をいれた着用で火事場駆けつけと規定--消防組は時代により改変された模様---早鐘・太鼓の打ち様も規定--

宝永4年10月4日の地震・3回の津波は高2丈、西は小高坂、井口、北は久万、万々--一望渺茫たる大海原となる。藩政中は小高坂・江の口・潮江・井口は城下四個村と称し、町制実施後は比島・大川筋を合して一村となり大正6年高知市に合併。
白鳳のの地震についで土佐の歴史に記録される宝永の大地震(1707年10月未の刻午後2時)朝より風少も不吹、一天晴れ渡って雲を不見、其の暑きこと極暑のごとく、未の刻---大地2〜3尺に割れ、水湧出、山崩、人家潰事将棋倒しをみるがごとし---西は小高坂・井口北は万々、久万、秦泉寺・薊野・一宮布師田、東は--一面の海と成り--。
20年後の享保12年(1727)2月朔日午の下刻(午後1時)大火;越前町伊野部丈助から出火、西風に煽られて数条にわかれ、一手は城郭を全焼して---に及び、一手は---。宝暦の大火(1759)のさい新市町の丁子屋勘右衛門は官設消防隊を上書・100余年後になり・明治3年9月藩庁の管轄に移され始まった。

水害は、かっての河中の名にそむかず、人々を脅威した。--天保7年(1836)の8月のものは杓田の堤を決壊して井口・小高坂・江の口方面に浸水し橋梁五つを流失させた--平均10年に1回の風水害--

安政大地震(1854);午後4時・夕食炊事中なので倒壊後出火・津波浸水--

18世紀〜19世紀私塾(学問の場)・寺子屋(読み書きそろばん・実用庶民教育);小高坂越前町に大谷塾で漢学、枡形に和漢の福岡塾・江の口には読書習字の亭と漢学の塾の3つ合計18を数える(高知藩教育沿革取調べほか)、文学のみならず武芸諸般にわたり稽古場を構えて門人を集めた。

明治5年8月学制発布高知市第一尋常小学校を朝倉、第二は材木町、----。
明治20年小学校令改正、高知市は下知・潮江・江の口・小高坂・鴨田・初月・秦・一宮の諸村は連合して土佐郡第一高等小学校を追手筋に建て、その管理を土佐郡長に委任。明治22年連合より独立、高知市高等小学校を建設。土佐郡第一小学校組合は敷地後者を高知市に譲り北より木町に移転。
補習学校、幼児保育園改め幼稚園も建設されてゆく。、

明治初期の寺院;大小613寺(僧徒1,239人、うち一向宗僧461)小高坂に一向宗寺院真光寺と真流寺、曹洞宗寺院常通寺・威徳院・福城寺・真楽寺・明王院・吉祥寺・普門寺・法泉寺。

祭礼の花台:17世紀に長崎の花鉾をみて試したことから、寛文4年朝倉神社の大祭の笠鉾が最初。その後、石立八幡・若一王子宮・小津神社--の祭礼に出、元禄年間ますます盛ん--明治末期まで<御城下町または小高坂、潮江、江の口など神明御祭りのとき屋台をこしらへ踊りをおどらせける。そのありさま前代未聞のことなり。ほかに、浦戸の廻し打ち、帆傘のつり魚、闘犬、闘鶏、箸拳、紙凧揚げ、--

明治新政 小高坂郷長は仙頭堪八(万々、福井を兼任、はじめ高知郷に属す)。江の口郷・一宮郷---。民兵募集は「海南政典」によれば、商人も脳に転業すれば民兵志望を認めた・庶民も教練場にはいると帯刀、5年間兵籍・発砲千発等で日常帯刀可。10年勤続で郷士登用の途、明治2年には5年に短縮。高知藩で民兵15,000人。 フランス式訓練。玉水新地・稲荷新地・吸江新地が当時の三新地。役者・飯盛が取り締まり対象。郭中武家屋敷は無税で拝領屋敷あり、拝借屋敷ありであったものを、郭外の御免許屋敷にも課税することとなり、越前町・桜馬場・大膳様町・小川端から愛宕町の拝領屋敷も貢物を徴収することとなる。厳禁されていた庶民の郭中馬上往来・籠乗り打ちもOK.。高知町の名が郭中に替わって生まれたのもこのころで、明治4年には高知藩は高知県に、明治6年には高知古城を公園とし士民に開放し散歩を許可。

        

1996高知市観光課発行・土佐観光ガイドボランティア協会編「高知市北部・西部ガイドブックP63〜」;
*薫的和尚の墓;宗善寺谷に在り、碑文にいわく、山内政権の陰謀迫害にひるむことなく、獄にあってなお法難に耐え抜いた薫的和尚は、寛文11年正月十日結跏趺坐のまま静かに入寂した。其の日、暗雲にわかに低迷し、たちまち豪雨は沛然として大高坂の森を震わし、落雷は打ち続いて山頂の牙城を脅かす。世の人いな時ならぬこの嵐を、天地が薫的和尚の市を悼むところと語り伝えた---。
三の丸の墓;小高坂山の西北の部分を三の丸という。通称三の丸様と呼ばれた2代藩主忠義の側室の墓がある。
才谷屋墓地:蛭ケ谷北、字三の丸南の斜面、字大平(三の丸東の峰)、字西ケ丘に多数基。
広井磐之助邸跡碑、同墓:
望月亀弥太邸跡:
弘瀬健太邸跡、同碑:
*井口城跡
*若一王子宮
*永福寺:井口事件と永福寺、大正6年のフランク・チャンピオンの位牌(興行主の鬼頭良之助が永福寺の信徒であったので安置)、本尊は阿弥陀仏。寛永4年福井村から現在地に移り、宝永4年に東本願寺に帰参して、その末寺となったと伝える。裏山の道を隔てた東側の小山が井口城跡である。いわゆる井口事件がおこったのは、文久元年3月4日のひな祭りの夜。永福寺門前、上士下士の対立は・藩庁の採決は下士にきびしく・新たな結束への自覚を促すこととなる。土佐勤皇党はこの年8月に結成された。
*極楽寺

*谷垣守、真潮邸跡;桜馬場14近沢氏宅
*植木枝盛邸跡;桜馬場16平賀こま氏宅
*百々越前守邸跡;南越前町古見病院北百mに記念碑
*常通寺跡;西越前町・大戦で消失した県師範学校のあとに城西中学校の建っている所;もと安祥寺といって行基がひらき長宗我部の菩提寺で岡豊城下にあった。元親が大高坂城を築いたとき石立に移したが山内一豊が入国し小高坂に移したもの;土佐第一の大きな寺だったが明治3年(1870)竹林寺に合併。
*尾戸焼窯跡;小津町3-8宮元私宅入り口に碑、野中兼山が大阪の名工久野正伯を招き尾戸(小津)に築く、能茶山などの土で作陶・弟子に森田などは久野の帰阪後も継ぐが明治3年藩窯廃止・森田の正系は昭和5年絶えた。伝統を継ぐ土井窯、谷窯がある。
*寺田虎彦邸跡
*開成門
*山地元治誕生地
*広井磐之助邸跡
*島村速雄邸跡
*広瀬健太郎邸跡


 子育て援助(1)  子育て援助(2)   下は南海・津波予想図(県防災図)2008年当時


水門 開く




水門 閉鎖

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