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201.5.16 高知新聞 田内千鶴子さんの心継ぐ 長男基礎さん 今秋;東京にも日韓高齢者施設を開設「共に生きる場に」昨年2月着工・今年10月オープン予定


2014.8.22高知新聞 県ボーイスカウト訪韓 四万十市で結団式 25日出発・中学生7人・28日まで交流 「木浦の母」縁に交流

「木浦の母」たどる旅 2012.7.10高知新聞 生誕100年となる10月31日をはさむ3泊4日 100人規模参加を呼びかけ 29日高知を出発・ソウルでは宗廟とか慶福殿、木浦へバス移動後はお墓参りや記念行事 共生園・旧日本人街・儒達山 ワールド・オーファンズ・デー大会参加 世界遺産「水原華城」やオドゥサン統一展望台・同日や高知市へ戻る 一人10万5千円 締め切り9月14日 高知新聞観光へ申し込み(088・825・4334)またはJTB高知支店(988・823・2331)  11月8日三翠園で記念式典・9日生誕地記念碑前で献花・県民文化ホールで後援会・コンサート予定

韓国映画祭 主催 駐広島・大韓民国総領事館 〜2012韓日ハンマウム映画祭in高知  田内千鶴子生誕100周年記念事業プレイベント〜  2012年7月3日(火)〜7月4日(水)入場無料(事前申込制、先着順) 高知県立美術館ホール ・愛の黙示録 7月3日(火)15:00(14:30開場)  朝鮮名探偵〜ヒメトリカブトの秘密〜 7月3日(火)19:00(18:30開場)   グッバイ、マザー 7月4日(水)15:00(14:30開場)   私の愛、私のそばに 7月4日(水)19:00(18:30開場)   詳細はこちらのチラシをご覧ください⇒韓国映画際  各回380名様(自由席)

 申込み期受付期間:なし (お申込みは定員になり次第、締め切りとさせていただきます 。結果は返信メール、返信はがきの発送をもってお知らせします。 メールでのお申込みご希望の映画の題名、住所、氏名、電話番号をご記入のうえ、お申込みください。複数申込可能。
メールアドレス:kimhy23@gmail.com 往復はがきでのお申し込み 省略


2012年10月29日、30日、31日 木浦市主催 国連「世界孤児の日」制定推進宣言及び日韓神前交流大会 全羅南道木浦市全域で 主管は田内千鶴子生誕100周年記念事業会 前夜祭・記念式・祝賀公演(音楽会予定)・親善交流大会・国際学術会議・国際子ども会議・日韓ゴルフ大会 問い合わせ 072−271−0881 078−651−0166 project@kokorono.or.jp

2011.7.15高知新聞 ソウル共同 松本外相は大韓航空機が竹島周辺の上空をデモ飛行したことに抗議するために、18日から1ヶ月間、すべての大韓航空機を利用しないよう外務省全職員に指示した・・。


2002「日韓国民交流年」 韓国の観光情報  2001日韓国民交流年

全羅南道
木浦市 韓国西南端・人口約25万人の港町・多島海とか儒達(ユダル)山を望む風光明媚な港湾観光都市、面積:47ku、26洞47自然部落・512通・2,160班、公務員数1,055名、市議員25名、(2000年11月末)、新しい港や国際空港も建設が予定されている。全羅南道はチュララナンドー
木浦の涙(譜面) 映画「愛の黙示録」  tauchi 韓国映画と歌アリラン(歌詞と意味)  韓国映画と歌「トラジ」(歌詞と意味) 日韓映画  アリラン(歌詞と演奏)  イムジン河(歌詞と演奏  2012.5.10高知新聞 作家の山崎朋子さん(「サンダカン八番娼館」)田内さんの評伝を岩波書店の月刊誌「世界」で連載(2009年6月〜8月号)ほかの連載とあわせ同書店から「アジア女性交流史 昭和期編」として出版予定・・・・。田内さん生誕100年事業で11月9日高知師の県民文化ホールでの公園も予定。

木浦のオモニ 田内千鶴子
産経 日本人の足跡 (前略)朝鮮戦争が勃発するまでの数年間、千鶴子は人生の中でも平穏な日々を送っていた。夫・尹致浩との間には4人の子供に恵まれ、共生園の創立20周年を祝う式典も開いた。一時は「親日家」として攻撃した村人たちも、資金を出し合って20周年を祝う記念碑を建立した。(後略)

2007.11.1高知新聞 記念碑建立10周年、命日の31日・・献花式、共生園の子ども26人と孫で園長鄭愛羅(チョン・エラ)さんや職員、長男の基さんら参列・・。

2006.5.20 高新 韓国ホアム賞(1990年創設、学術・芸術・福祉分野で功績のあった人が対象「韓国のノーベル賞」ともいわれる、千鶴子さんの長男・田内基さん受賞。2006.8.高更新 田内基さん運営「特養ホーム『故郷の家』」は現在、境・大阪・神戸の3箇所、在日韓朝日の高齢者生活、ショートステイやデイサービス、在宅介護支援事業、留学生ハウス、文化ホール。京都南区(在日の韓国・朝鮮人多い)に10億円寄付目標約4,800u鉄筋6階2007年11月完成予定目標(連絡は「心の家族072・271・0881)


韓国動乱勃発後に巻き込まれての悲劇と前後の心打たれる物語を、シルバー高知のメーリングリストで紹介された宮内治さんの作品を****線の下に転載しました。

韓国観光公社公式サイト は  http://japanese.tour2korea.com/  編集→コピー ⇒ アドレスバーの窓に(編集→)貼り付け移動 でご利用ください
日韓交流通信  は http://www.jpf.go.jp/jkxx/j_index.html

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木浦の母長男 尹基さん(社会事業家) 2011.高知新聞 ・・
田内基(もとい)さん・・故郷の家は多文化共生時代の福祉モデル・・母の言葉は教科書・・故郷の家の定員は55人(この程度の規模でこそ)それぞれの個性や趣味、その日とらしさが判る・・・母の願いは共生園の卒業生たちが職に就けることだった・・・東京で終わらせる気はない(在日韓国老人ホーム)在日の多い都市部を中心に10箇所は造りたい・・。
2009.3.25高知新聞 
韓国放送公社の第15回海外同胞賞を贈られた 在日コリアン特養を評価
2004.12.15高新 ---
韓国における65歳以上の恒例人口は2019年に14%(推定)、20年に20%--高齢化のスピードは速い---@経済成長の鈍化、A年金財政の破綻、B高齢者ケア費用の増加---「こうした老人問題を解決するためには、政府がより積極的に老人福祉政策をすすめてゆくことが必要ですが、同時に国民一人一人が、お年寄りを社会の長老として、つつしみ・敬い・尊敬する意識を取り戻すことが大事です」---と、語った。
2004.12.7 日韓の社会福祉士250人が大阪で、ソーシャルワ-カーの位置と役割を主題に専門職として日韓交流を深めた。(伊さん;在日コリアン特老「故郷の家」の活動報告を行った)
在日コリアン高齢者介護サービス;堺市072−271−0881、生野区06−6753−6580、長田区078−651−1555
2009.4.1高知新聞 故郷の家
京都にも定員160人のうち半数は日本人、全室個室 梅干とキムチを交互に出す 堺市大阪市神戸市に次いで4番目の施設、次は東京に作りたいと意欲を示している


木浦共生園 私たちの2005の願い ・
うそをつかないようにしてください。兄弟と県下をしませんように。愛する心もてますように。・漢字の資格試験の勉強ができますように。不平でなく、感謝する心をもてますように。成績が上がりますように。すばらしい料理人になれますようん。・必ず通訳者になります。公務員になれますように。

高知市の若松町を東端に向いて歩いてゆくと、五台山をバックした、まだ真新しい記念碑(顕彰碑)<
ほか・関係記事を集めました)が建っている。「田内千鶴子生誕之地」とあり、千鶴子の肩書きには、日本語とハングル文字両方で、「韓国孤児の母」と書かれている。

原字は藤田紅子という書家の作品だそうだ。関係者は原石は彼の地(韓国)のものを使おうと考えた。しかし、石は加工品でないと輸入できない。結局、高知
市の石工が現地に出向いて、向こうの石工と合作して刻んだ。碑の周りは無数の小石が散りばめられている。これらの小石は千鶴子が韓国・木浦(モッポ)で育てた三千人の孤児を意匠している。

 碑文は、次のようなことを伝えている。
「田内千鶴子(1912〜1968) 高知市若松町に生まれ、7歳で両親とともに、日本統治下の韓国全羅南道木浦市に渡る。 韓国人キリスト教伝導師尹致浩と結
婚。致浩創設の共生園で孤児を育てる。 1945年第二次世界大戦で日本敗戦。戦後の混乱に加え朝鮮戦争のさなか、夫行方不明の荒波に翻弄されながらも、三千人の孤児を守り育て、”韓国孤児の母”と慕われる。 1965年 韓国 文化勲章国民賞受章 日本 藍綬褒章受章  ”至高の愛は永遠に語り継がれる”」――。

 木浦(モッポ)は、日本から距離にするとわずか200キロメートルしか離れていない韓国最南西端の海岸沿いの港町である。正式には韓国全羅南道木浦市。その中心街から少し離れた郊外に、「木浦共生園」がある。
 

 

 
   < 平成16年11月共生園訪問の写真の一部 >


 田内千鶴子は、韓国の日本統治下、日本人であることを捨て、言葉・食べ物・生活習慣すべてを韓国式に変えて、延べ 三千人もの韓国孤児を育てあげた。日韓(朝)の不幸 な歴史を体現しながら、強い信仰心と人間愛をもって生涯を貫き通した。

 この田内千鶴子の足跡を記す「木浦共生園」を先日(平成15年10月15日)、初めて訪ねることができた。折良く募集していた「共生園創立75周年式典・田内
夫妻の胸像胸像除幕式」に一般参加してきたのである。

 この式典の模様は、高知新聞が過日、既に報道している。全羅南道知事、木浦市長、全羅南道出身の代議士(金大中の息子)など済々たる来賓たちの祝辞も圧巻だったが、千鶴子の長男・尹基(ユン・ギ)や今年92歳になるという義妹の臨席もまことに得難い機会だった。そして、何よりも在園孤児たちの日韓童謡の合唱が心の襞に奥深くしみ込んだ。

 勝手ながら、以下、数回に分けて、いまなお「韓国孤児の母」として韓国全土の人々に慕われる田内千鶴子の生涯をご紹介してみたい。 
        
 田内千鶴子は一人娘である。明治から大正に元号が変わった1912年、高知市若松町で生をうけた。若松町の碑文には「父・徳治、母・はる」とある――。

 1919年、千鶴子が7歳の時、朝鮮総督府木浦市庁の役人だった父を頼って母・はるとともに海を渡った。暮らしは裕福だった。しかし、20歳の時、徳治が病で突然、他界した。はるは助産婦をしながら女手一つで千鶴子を育てた。

 母・はるは熱心なクリスチャンだった。その影響か、女学校を卒業した千鶴子は、教会の日曜学校でオルガンを弾くようになった。ある日、女学校時代の恩師から、「木浦の郊外で孤児院を経営している韓国の青年が日本語の先生を探している。行ってみてくれないか」と頼まれることがあった。

 それが尹到浩(ユン・チホ)との出会いだった。尹到浩はその孤児院の園長だった。千鶴子が訪ねると、尹到浩は遠くで作業をしている。背の低いやせた青年だった。丸坊主の頭に麦わら帽子をかぶり、わらじを履いて孤軍奮闘している。孤児院といっても、いまにも潰れそうなバラックである。障子も襖もない。殺風景な30畳ほどの部屋が一つあるばかりだった。むろん畳などあるはずはない。「かます」と呼ばれる穀物や石炭などを入れる粗末なむしろ袋が敷いてあるだけだった。

 千鶴子がとまどいがちに声をかけると、尹到浩がようやく振り向いた。その目は澄み、気力に溢れていた。千鶴子の胸は少しく高鳴った。

 その日から千鶴子の新しい生活が始まった。食うや食わずの40〜50人の子どもたちの世話に明け暮れるのである。最初は笑顔を見せなかった孤児たちも、千鶴子の献身的な奉仕に次第に心を開き始めた。子どもたちは当然に、千鶴子に母親を求めた。千鶴子は園児たちにとってなくてはならない存在となっていった。

 それは尹到浩にとっても同様であった。ある日、尹到浩は千鶴子に言った。二人でこの子どもたちの親にならないか、と。尹らしい朴訥な口調であり、最初、
千鶴子にはよくその意味がのみこめなかった。しかし尹の顔が、異様に赤い。千鶴子にも異存はなかった。

 しかし当時の日本人の朝鮮人に対する差別感情は根強く、二人の結婚には誰もが驚いた。ことに内地の親戚筋の反対の声は強かった。それでも二人は愛のほうを選んだ。1939(昭和14)年、尹が31歳、千鶴子が28歳の時だった。母・はるだけは千鶴子の気持ちをよく理解していた。千鶴子の手を取り、「神の前では日本人も朝鮮人もない。誰もが兄弟姉妹じゃきにね……」と、励ましてくれた。(つづく)
         
 電気もガスもない凄まじい新婚生活だった。勿論、米などはめったに口にできない。二人だけのことではない。到浩も千鶴子も既に何十人という子持ちなのである。そのうえに園の子どもたちは裸足で園舎を出入りするし、朝、顔を洗うことすら知らない。生活習慣などまったく身につけていないのである。

 千鶴子はまず、人間は規則正しく食事しなければいけないことから教え始めた。そして、食前には神に感謝の言葉を捧げ、顔や手を洗うことを教えた。園に
は風呂はない。近くの海に出かけて皆で体を洗った。夜は間仕切りのない部屋である。かますの上で雑魚寝をした。バラック建ての孤児院は何時、風で吹き飛ばされるかわからない……。

 それに子どもたちはますます増えていくのである。木浦の周辺には無数の島々があり、いずれも寒村である。食いっぱずれた親たちが次々と捨て子のようにわが子を孤児園に託していく。尹到浩も千鶴子も決してそれを拒まなかった。

 それにしても園舎の改善は急務だった。尹到浩と千鶴子はつてを頼って総督府に窮状を訴え、やっとオンドルつきの2部屋が造築されるところまでこぎつけ
た。

 翌40年、長女・清美(チョンミ)、42年には長男・基(ギ)が誕生した。千鶴子はわが子と孤児を分け隔てはしなかった。実子たちも皆、園中で育てられた。

 45年、終戦。36年にも及ぶ日本占領から解放され、南朝鮮は独立して大韓民国となった。立場の逆転である。千鶴子は「このまま韓国にとどまりたい」と願っ
たが、世情はそれを許さなかった。千鶴子や母・はるはやはり旧支配者の日本人であるのだ。悩みぬいた末、千鶴子は夫や園の子どもたちに別れを告げて、年老いた母・はると一旦、日本に帰ることにした。

 千鶴子のお腹には三人目の子が宿っていた。辛い、切ない別れだった……。

 故郷である高知市も惨状を極めていた。戦禍に加えて南海大震災の追撃。気丈な土佐ッ子も「この世に神も仏もないか」と嘆いたものだった。しかし千鶴子には、日本占領下の朝鮮の暮らしに比べればなにほどのことかと思えた。物がなければないで何とかなる。それな皆、何とか食えるのである。帰るべき故郷、家もある。高知で親類や近所の温情にもすいぶん触れた。しかし千鶴子には、夫や園の子どもたちのことが何よりも辛かった。

 日に日に大きくなるわが腹を見つめながら、やがて千鶴子は強く決意するのである。この子を生んだら、私は木浦に帰るんだ、と……。

47年、三人目の子を携えて千鶴子は再び木浦共生園の門前に立った。一年余の空白だった。目ざとい子が千鶴子を見つけた。「オモニが帰ってきた!」と叫
び、園児たちは三々五々に数を増して、そこら中を駆け回った。やがて尹到浩が出迎えた。到浩は「千鶴子さん……」と、唸るように言った。後は言葉にならな
かった。今度は、千鶴子が言った。「私、今日から尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗るわ……」尹到浩は眼を潤ませながら、しっかりと千鶴子の手を握りしめた。周囲では無数の子どもたちが眼を輝かしていた。

 しかし当時の韓国人の反日感情は殺気すら帯びていた。ある日、この木浦共生園にも暴徒たちはやってきた。「倭奴(ウエノム)をぶっ殺せ!」――
 尹到浩は「話せばわかる」と皆を諫めようとする。しかし、なかなか治まらない。千鶴子は恐怖に青ざめた。すると、園の子どもたちが暴徒たちの前に立ちは
だかるように千鶴子を取り囲んだ。「僕たちのオモニに何をするんだ!」 千鶴子は思った。この子たちのためなら、いつでも命を捨てられる……。

 終戦から数年がたち、村人の暮らしもやや落ち着きを取り戻し始めた。村人たちも次第に千鶴子たちに心を開くようになった。木浦共生園が二十周年を迎えた年に、待望の講堂が完成した。その記念に、と村人たちがりっぱな記念碑までを建ててくれた。尹夫婦の長年の労苦がようやく実を結びつつあるかにみえた。

 ところが、1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発するのである。北朝鮮軍が突然38度線を突破して南下してきた。それは破竹の勢いであり、瞬く間に全羅南道にある木浦も席巻された。北朝鮮軍は日本人や日本への協力者を極端に嫌った。あちこちの町や村で「人民裁判」が行われるようになった。やがて北朝鮮軍が木浦共生園にも立ち現れた。千鶴子も銃口の前に立たされることになった。さすがの千鶴子も覚悟を決めた。日本がこの国にしてきたことを思えば……。

 夫の尹もクリスチャンである。共産軍に決して好まれてはいない。千鶴子を処刑するならば自分を先にしろ、と北の将校に迫った。と、そのとき、ユン・ハク
ジャは無罪だ、と叫んだ一人の村人がいた。「ユン・ハクジャはわれわれ貧民の仲間だ!」周りの村人たちも叫んだ。「そうだ! そうだ! もっと悪い奴をやれ!」 千鶴子は再び人々の愛に救われた――。「あの時、千鶴子は死んだのよ!」と、後に高知の親類の一人に語っている。彼女はこの時、一生を孤児たちに捧げると心に誓った。2004.7.2高新、伝えたい土佐の100人、言葉その言葉より

 だが、それは束の間の平穏だった。翌51年1月、食糧の調達に出かけた尹が行方不明になってしまったのだ。北朝鮮軍に拉致されたのでは、との噂も流れた。ともかくも、尹はそれっきり木浦共生園に帰ってはこなかった。
 
 53年になって、やっと停戦になった。園の子どもたちも500人にふくれあがっていた。千鶴子自身にも四人の子がいた。周囲の人々は、けなげな千鶴子に心から勧めた。「子どもを連れて日本へ帰りなさい」。しかし、千鶴子は微動だにしなかった。「夫の20年の仕事、この木浦共生園は私の命なのだ」、と。

 千鶴子は子どもたちだけにはひもじい思いをさせたくなかった。リヤカーを引き、村人たちの家々を漬け物や残飯をもらい歩いた。詐欺師にだまされて園を乗
っ取られそうになったこともあった。そのたび、千鶴子は果敢に闘った。子どもたちはそうした千鶴子をよく見ていた。大きな子は街で靴磨きなどをして園の会
計を助けた。                     
 
 63年、千鶴子は韓国政府から文化勲章を授与された。65年には日韓国交が回復した。ようやく歴史に吹く風は南風になった。孤児たちの将来を憂う千鶴子は、かねてからの腹案であった職業訓練学校の設立に動いた。西走東奔し始めた。このとき彼女は「夫が帰るときまでと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と答えている、2004.7.2伝えたい土佐の100人、その言葉より

 しかし、長年の辛苦は千鶴子の体を確実に蝕んでいた。やがて千鶴子は病に倒れてしまうのである。千鶴子は「自分のために高い治療費をかけるのはだめよ。そのお金を園の子どもたちの進学資金に使いなさい」と、諄いほど指示していたという。

 皆の祈りもむなしく千鶴子の病状は悪化するばかりだった。やがて千鶴子は死を覚悟して木浦共生園に戻ってきた。周囲にとってそれは哀しい帰園だった。その10日後、愛しい子どもたちに取り囲まれながら千鶴子は静かに息をひきとった。1968(昭和31)年10月31日、奇しくも千鶴子57歳の誕生日だった――。

 悲報は韓国全国を駆けめぐった。国中に散らばった卒園生たちは号泣した。木浦市は初の市民葬とすることを決定した。葬儀には韓国全土から3万人が参列した。その日を、地元紙は、「木浦は泣いた」と報じた。

77年、千鶴子の長年の夢だった職業訓練学校がソウルに完成した。これまでたくさんの人材を世界各地に送り出している。韓国・木浦共生園は、長女・清美が引き継いだ。いまは孫にあたる妙齢の女性が園長を務められている。

 また、「梅干しが食べたい」と、死の床でうわごとを言った母の思い(生涯を閉じた56才の誕生日を迎えた日かすかな声で、夫の行方が分からなくなってから韓国では一度も口にしたことのない日本語であった;2004.7.2高新、伝えた土佐の100人、その言葉より)を知る長男・基(ギ)は、大阪で在日同胞のために、キムチが食べられる老人ホームをつ
くった。尹到浩と千鶴子の遺志はこうして二人の子どもたちや孫たちに受け継がれている。

 なお、標題とした「愛の黙示録」は95年に完成した日韓合作の初めての映画の題である。監督は金洙容(キム・スヨン)。千鶴子の長男・尹基(ユン・ギ)原
作の伝記を中島丈博が脚本化し、千鶴子役を石田ゆり、尹到浩役を吉用祐(キム・ヨンウ)が熱演している。

「黙示録」とは、「新約聖書巻末の一書。小アジアで迫害されているキリスト教徒を慰藉、激励し、キリストの再来、神の国の到来と地上の王国の滅亡とを叙
述。ヨハネ黙示録。ほかに、正典に属さないユダヤ教・キリスト教の黙示録的な類書がある」と辞書にある。韓国は「儒教の国」とも言われるが、この国をゆく
と、村落、村落に必ずキリスト教会があって、この国ではキリスト教がもっとも庶民に根づいた宗教だと思えた。(おわり)シルバーMLの宮内様の文でした
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        日韓史に記憶される人びと「田内千鶴子」

        日韓史に記憶される人びと「38度線のマリア・望月カズ」

社会福祉法人こころの家族(故郷の家)
日本国 大阪府 堺市 桧尾3360−12
電話 (072) 271−0881
社会福祉法人共生福祉財団(木浦共生園)
大韓民国 全羅南道 木浦市 竹橋洞473
電話 (0631) 243-7501-2
 木浦共生園
 


全羅南道 南道の愛称である全羅南道は、温帯性気候・温暖多湿な地域で、四季がはっきりしている。黄海と南海へと続くリアス式海岸線に沿い大小2,000の島々が散らばりる。平野は豊かな水量に恵まれた穀倉地帯がひろがる。国土の12%の地域に全国の5%にあたる216万人が生活している。5つの市があり、木浦市はそれらの一つである。
朝刊ヘッドライン・ニュース
高新2003年10月16日 (インターネットより転載)


“木浦の母”功績永遠に 田内夫妻の胸像除幕

田内夫妻の胸像 jpg 【木浦(韓国)15日崎山正・本社記者】韓国の孤児3000人を育て“木浦の母”と慕われた故田内千鶴子さんの胸像が韓国全羅南道木浦市の「木浦共生園」に完成。15日、本県の訪問団(団長=島田一夫県出納長、約100人)、全泰洪木浦市長ら約500人が出席して盛大に除幕式が行われ、千鶴子さんの功績をたたえるとともに本県と全羅南道の交流促進を誓い合った。

 千鶴子さんは戦前戦後の困難な中、夫の尹致浩さんとともに共生園で親を失った孤児3000人余りを育て、多くの韓国国民から敬愛された。平成9年、千鶴子さんの生まれた高知市若松町に顕彰碑が完成したのを機に本県と全羅南道の交流が活発化。ことし5月には両県道の間で観光・文化交流協定書が調印された。

 共生園の創立75周年に合わせて田内夫妻の胸像建立計画が具体化。本県でも胸像除幕式訪問団実行委員会(西森潮三会長)を結成し、両県道の交流協定に基づく第1陣として、国際チャーター便を仕立てて除幕式に参加することになった。訪問団一行はこの日、高知空港から直航で韓国光州空港に着き、バスで木浦市に入った。

 除幕式では、共生園水仙花合唱団による祝いの歌などが披露された後、共生園家族代表で千鶴子さんの長男の田内基さんがお礼のあいさつ。続いて島田団長、名誉団長の橋井昭六高知新聞社相談役、全市長らによって、田内さん夫妻の胸像が除幕された。

 胸像は同園の一角に建立され、ブロンズ製で石の台座に据えられている。高さ2・2メートル、横2・8メートル、奥行き1・1メートル。夫妻の胸像を左右に中央には夫妻が7人の孤児らの世話をする場面を描写。その上には韓国作家協会顧問・韓嚴jさんの文で夫妻の功績が日本語、朝鮮語、英語の3カ国語で記されている。

 この後、近くのホテルで全羅南道と木浦市主催の歓迎晩さん会が開かれ、朴泰榮全羅南道知事ら約200人が出席。橋井名誉団長が「今後とも両県道民の相互理解と友好関係がますます深まることを期待しています」とお礼のあいさつ。乾杯の後、道立国楽団の公演なども行われ、和やかに歓談した。

 【写真】除幕された田内さん夫妻の胸像。慈愛に満ちた2人の表情が創立75周年を迎えた木浦共生園を優しく見守る(韓国全羅南道木浦市)

日韓スクラップブック2002.3.20の転載 去る3月1日(金)東京・赤坂の国際交流基金フォーラムにおいて、国際交流基金地域交流振興賞授賞式が行われ、大阪の社会福祉法人「故郷の家」はじめ三団体が受賞した。(中略)社会福祉法人「故郷の家」は大阪府堺市にある老人ホームだが、ここには、在日コリアンのお年寄りが毎日の生活を送っている。理事長ユン・ギ氏の母は、韓国で孤児院木浦共生園を運営し、広く尊敬されていた田内千鶴子さん。ユン・ギ氏は、病床にあって、梅干が食べたい、とつぶやいた母親と同じように、日本に住む在日コリアンのお年寄りも毎日の生活の中でキムチの食べられる老人ホームが求められているのではないかと在日コリアン向けの老人ホーム「故郷の家」スタートさせた。もっとも、「故郷の家」は在日コリアンの人々だけのスペースではない。韓国文化を知らせるコリアンデーを設け、近所の人々を招いたり、周囲の学校との交流事業を企画したりして、地域の国際化に大きな役割を果たしてきた。

2003.12.12以降

韓国ソウルのスポーツ大学院(金重英総長と学生21人来高) 高知大と交流へ来高知 本場のテコンドー披露 2003.12.11〜14滞在 同大学院は私立校 400人が学んでいる 2003.12.12高新

木浦 モクポ 全羅南道の西端に位置する港湾都市。かつて韓国の西海岸や中国・日本への玄関口として栄えた。
ソウルからセマウル号で4時間40分。光州からバスで1時間20分。港町;フグやタコなどの海鮮料理自慢の店が多い。
木浦港より2時間で紅島ホンド。
珍島チンド大橋を経由し珍島へ・バスで2時間;李舜臣の亀甲船での活躍の海流。珍島犬。

2008.5.27高知新聞 愛の黙示録(1995念日韓合作映画)制作に携わった故車凡錫氏が「木浦の涙」を愛唱歌としていた・・<船頭の舟歌 沖方(おきえ)にかすめば 三鶴島(サムハクト)の波深く 消え行くのに・・>。発売後、朝鮮総督府の検閲で、2番の歌詞中”三百年の怨み”が問題となり、作詞者孫牧人は「怨恨と鴛鴦の発音が似ているところから、おしどりをたとえに挙げ、深い愛情のある者が別れを惜しんでいる意味だと説明して切り抜けたという・・三百年の怨みとは秀吉の朝鮮出兵を指し、表面木浦の風景を歌いながら植民地統治への抗議が織り込まれていた・・。


項目 朝鮮通信使

対馬の宗氏は一時期日朝貿易を独占、韓国との間を仲介、藩政時代の参勤交代は3年に一度と免除された。16世紀末、秀吉により断絶した国交を回復するため、慶長12年(1607年)を第1回〜200年間・12回(文化8年・1811年)通信使の来朝。428名〜504名の使節団。対馬までとなった第12回で328名。
ソウル:李王朝の五大王宮の一つ「徳壽宮」に近い国立中央博物館にコーナーが設けられている。
ソウルから南へ特急で3時間、密陽:表忠寺{通信使の先鞭をつけた松雲大師にまつわる資料展示。
釜山:龍頭山公園一帯に、草梁和館(領事館相当の施設、33万平方米、対馬藩から常時500人以上が常駐していたという)が開設されていた。
朝鮮通信使
http://www.yamapla.jp/kankou/tsusinsi/index.html

http://kyushu.yomiuri.co.jp/chosen/chosenmain.htm