
| 序 |
見廻しても、暫くの間全く何も見えなかった。
辺り一面、真黒だったか真白だったか忘れた。
心淋しくて泣こうとした瞬間、目の前に狭いながらも視界が広がるようになった。
取り敢えず見上げてみると、月が見えた。
満月。
しかし、その赤ん坊の瞳に写った月の光は"月光"ではなかった。
それは、黒と白の光だった。
「あれは月っていうのよ。…見える?」
自分は、どうやら誰かの腕に抱かれているらしかった。
声のした方に顔を向けてみた。色白な女だった。
「御免ね…私にはここ迄しか出来なかった…」
ここ迄とは、何処までなのか。それより先にその言葉の意味が解らず眼をしぱしぱさせるしか無かった。
その女性はその赤子を両手で抱き上げて言った。
「…やっと逢えたけど、あなたとはもう直ぐお別れなの。本当はもう少し一緒にいられる筈だったのだけど、
あなたは身体が少し弱いから早く下の世界に行くことになったの。あなたの一族は皆
鬼と戦わないといけないのに…あなただけそのまた何倍も強く生きないといけなくなった。…」
―大きくなってから、私はあなたに恨まれるかもしれない。
そう言うか言わないかのうちに、その女性の目に涙が溢れて来た。赤子が霞んで見えなくなった。
しかしその視界を開いたのもその赤子だった。
赤ん坊は自分の母親の泣き顔をわけも解らず撫でた。そして無邪気に笑い出した。
その女もそれを見て慌てて顔を拭いて笑いかけた。
「母親って…嬉しくても涙が出るのね」
そう言うとその赤ん坊を抱き締めた。
「有難う。…あなたは優しい子ね」
その時だった。
部屋の外で足音と人影の気配がした。
それは手前で止まった。
「六ツ花御前様。…新しいお子のお迎えに参りました」
そう言って深々と頭を下げたのはイツ花であった。
「…そうですか…。わかりました」
その姿を後ろ目で見た六ツ花御前と呼ばれた女性は赤子を抱いて立ち上がりイツ花の元へ寄った。
「この度は交神の儀で御気苦労なされて…」
「いいえ…そのような事はありません。でも」
イツ花の言葉に返して静かに首を振った。
「この子の瞳に光を宿すことは出来ました。…しかし彩までは叶いませんでした。
でも、そのことは今はもう良いのです。…それよりも、やはりこの子は私の元には置いてはおけないのですか」
その言葉を聞いてイツ花は淋しげに目を伏せた。同じくやはり、とでも言うように。
「その子の額の印、御覧になれますか。…その印を刻まれた者は鬼共と戦う運命を背負って生きるのです。
身体が弱くとも…。例え神である貴方のお子であるとしても。
ですので心苦しいのですが、ここは一つご理解下さいますよう…」
「解ってます。解ってるのですが、…云ってみたかった」
六ツ花御前はその赤子に愛おしそうに頬を寄せた。
「では…お願いします」
そうしてイツ花にその子を手渡した。
「確かに、承りました」
赤子を恭しく両手で受け取り、イツ花は再び深々と一礼した。
「さようなら…私の子。どうか、どうか強く生きてね」
赤子を抱いて去っていくイツ花の後ろ姿を、六ツ花御前は愁いを含んだ目で最後、見えなくなる迄見送った。
その赤子こそが、後に吉川玻耳目と命名される少年であった。
時は1037年の11月、晩秋の候の事だった。