万色

             木野 司

「綺麗な文章」
 気がつくと、私はそうつぶやいていた。特に意味があるわけもなくため息のように出
た言葉だった。膝の上には今読み終えたばかりの本があった。
 表紙、裏表紙、共に晴れた日の海のような青色のハードカバーで、タイトルどころか、
文字一つ書かれていない。別におかしな事ではなかった。この物語はまだ完成してない
のだ。タイトルがあるわけがない。
「でも、何か不思議だよね。すごく透明な感じがするよ。この文章」
 思った事を素直に口にしてみる。しかし返事はない。それで初めて、私は1人でいる
事に気づいた。
 真っ白な壁、真っ白な天井、真っ白な床。あるものといえば、病室にあるようなベッド
が一つ。そのベッドに腰掛けながら私は、この本を読んでいたのだ。そう、夢中で。
 昔から病弱で入院する事の多かった私にとって、本は知らない世界を教えてくれる宝箱
だった。読んでいる間は周りがまったくみえなくなる。そのことで、よくみんなを呆れさ
せたものだった。
 そして今も、読み終わるまで周りから人の気配が消えた事に全く気がつかなかった。確か
に読み始めたときは、誰かがいたはずだったのに。この何もない部屋に、この青い本を持っ
てきてくれた誰かが……
「誰だっけ?」
 思い出せない事に愕然としながらも、私は本に目を戻した。こんな事はよくあったような気
がする。この何もない、病室のような部屋にも見覚えがあった。
(気にする必要はないよ。)
 どこからか声が聞こえた気がした。体が一瞬硬直し、思わず本を落としそうになる
「誰なの?」
 しっかりと本を抱え直しながら、私は虚空に呼びかけた。
 返事はない。気のせいか、そう思った瞬間また何かが聞こえた気がした。
 かすかなそれを聞き逃さないように、意識を耳に集中する。
(本を読めば分かるさ)
 自信は持てない。でもそう聞こえた。
 その言葉を信じよう。催眠術にかかったかのように私は再び本を開いた。


 物語は典型的な、悪くいえばありふれた物だった。普通の女子高生が、ある
事件をきっかけに異世界に飛ばされる。そこで様々な人と事件に巻き込まれ
ながら、また元の世界に戻ってくる、そんなお話だった。
「やっぱり透明な気がするよ」
 ちょうど、半分まで読み返したところで私は、またつぶやいた。先ほどの声は
すでに意識からなかった。それほどにこの透明感が気になっていた。
 ストーリーこそありふれた物だが、その中身はしっかりしている。主人公の女
の子はいつも明るく元気で、出てくる登場人物も魅力的なものばかりだ。実際、
さっきまで私はこの本を夢中で読んでいたのだ。そして、同時にこの本の伝える物
にある種の感動と共感を受けていたはずだった。
 なのに、それなのに読むのを止めた途端、それらは感じられなくなった。唯一残
ったのは、ひたすらな透明感。ちょっとでも気を抜けば消えてしまいそうな、それ
でいて決して忘れられそうにないその感覚は、ある種の美しささえ感じられた。 
「困ったな」
 まるで暗闇の迷宮に取り残された気持ちだった。確かに存在するのにそれが何か
分からない。触れる事はできても決して見ることはできないのだ。もどかしさを感
じるよりは途方に暮れてしまう。
「闇雲に考えても駄目だよね」
 自分に言い聞かせる。迷宮なんて物は壁伝いに歩けばいつかは抜け出せる。そん
な事を得意げに話す友人の事が頭に浮かんだ。ちゃんと、順番に考えていけば、こ
の迷宮からも抜け出せるはずだ。
「透明か。透明な物って何があったかな?」
 まず、浮かんだのはガラスだった。触らなければ気づかない程、透明なガラス。
確かにそれは、今感じている感覚に似ていた。しかし、その無機質さと冷たさが私
の感覚を否定する。
「割れたガラスは痛いしね」
 今、感じている物は決して人を傷つける物ではない。もっと有機的で包みこむよ
うな感じの物のはずだ。
 次に浮かんだのは氷だった。冷蔵庫で作られるような不純物が混じったような氷
ではなく、向こう側まで透き通った綺麗な氷。ガラスよりは柔らかい感じがする。
でも、まだ冷たい。
「じゃあ、暖めてみようかな」
 頭の中に暖房を入れてみた。暖かな空気は次第に氷を溶かしていくだろう。思わず
暖房の効いた部屋で食べるアイスを想像して、ちょっと頬が緩んだ。溶けかけが一番
おいしい。
 そんな事を考えているうちに頭の中の氷はすっかり溶けていた。後に残ったのは
透き通った水。
 水……ミズ……みず 
 そう、それだ。この感覚は水に似ているのだ。透き通っていて体を包むように柔らか
な水。ゆっくりと流れて私をどこかに連れて行ってくれそうな水。そして、最後には大
きな、美しい海に私を運んでくれるだろう水に。
 私は慌てて、本を開いた。先程の途中から読み始める。今度は、文章が輝いて見えた。
迷宮から出た私を照らす太陽のように。まぶしさに思わず目を細める。
「どうしてだろう?」
 さっきまでは透明にしか見えなかったのに、まるで私の心を映し出すように……
「そっか」
 この文は映しているのだ、読み手の心を。透明な泉の水が人の姿を映すように。なんの
事はない、私が夢中になっていたのは、泉の水に映った、「私」なのだ。透明に感じて当
たり前である。自分の事ほど分かっていて自分には見えないものはない。そして同時に、
大切で綺麗なものでもあるのだ。
 もう一度、本を開くと、様々な色が見えた。何色と既に表現する事はできない。あえて
言うなら、万色だろうか。
 先程までの輝きが、迷宮からの出口を見つけた事に対する喜びであるなら。これはこの
本に対する無限の期待であろう。それは自分自身の無限の可能性への期待でもある。
 それを理解した瞬間、目の前が真っ白になった。どこかに引き寄せられるような浮遊感。
私が最後に見たのは、元の世界に帰る主人公のセリフだった。

『やっと、帰れるよ。大変だったけど楽しかった』


 気がついた時私は病室に居た。さっきまでの何もない部屋ではない。壁や天井が
白いのは一緒だが、その部屋は生活間に溢れて雑多とした印象があった。
 そして何より人がいる。
「戻ってきたみたいだね、おかえり」
 大きな目で私を覗き込みながら彼女は言った。その顔には好奇心が溢れている。
幼なじみの景子だ。病気で外に出られない私に、いつもお話を持ってきてくれる
かけがえのない友人。
「で、どうだった。今回のトリップは?」
 まるで、恋人とのその後を聞くような調子で聞いてくる。私がトリップから帰ってくると
いつもこんな感じである。自分が書いた物語の感想が聞きたくてしょうがないのだろう。
 私は苦笑しながら、膝の上を見た。 
 そこには青い本の代わりに、原稿用紙の束が乗っていた。これが本来の姿なのだ。
青い本はトリップ中の私の空想でしかない。
 私は、もう一度景子に目を戻した。待ちきれないのだろう。体を乗り出すようにこちらを
見ている。
「楽しかったよ」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
 そう言ってにっこり笑う。景子の顔がたちまち呆れ顔になった。肩ががくっと落ちため息が
聞こえる。もっと具体的な感想を期待していたのだろう。それが分かっていてわざと、言った
のだけれど、これでまた天然と思われたのかもしれない。
「もういいわ。あなたに聞いた私が悪かった」
 疲れきった顔で景子が言う。
 その横顔に思わず笑みが出る。
「でもね、頼まれていた物はちゃんと見つけたよ」
 私は物語に夢中になると、すぐにちょっとした白昼夢を見る。そして、そこから得た物から、
いつも景子の物語にある物を与えてきた。
 タイトルだ。これがあって、物語はやっと完成する。そして、この物語の名は……
 景子が顔をあげて私の目を見た。 「万色の向う側で」
 私の声に答えるように、膝の原稿用紙がカサリと揺れた。
          



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