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 第 3 頁  おんちゃん会設立前後の覚書 続・設立の前後
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2004.5.3 高新 夢は今もめぐりて;嶋岡晨さんより抜粋
〜〜行った先は、東急池上線の長原駅から歩いて15分、6分だったか。大田区南千束町109−日蓮がそこで足を洗ったとかいう伝説のある、洗足池(公園)、その近くに通称土佐寮、「土佐協会学生寮」はあった。
ここでちょっと、<歴史>を紐解いておく。在京の土佐出身学生らの親睦団体「土佐同志会」の発足が、明治17年。それが、支援者を得て「土佐協会」となるのが、明治32年。麹町富士見町に寄宿舎をつくる。その6年後、県議・片岡健吉等の力添えで、奨学金・建設資金などを集め、市ヶ谷に近い砂土原町に新寮を設けて移る(土地は山内公爵家の提供)。のち、大震災、復旧工事、金融恐慌、戦時体制強化、学徒勤労動員、学徒出陣・・・などの時代の荒波をかぶって、
昭和20年3月9日の東京大空襲で寮は灰になる。続く食糧難、住宅難、いんふれ、タケノコ生活・・・学制たちは不安を抱えてさまよう。そこへ、高知県出身・寺尾豊氏の手がさしのべられる。やがて参議院議員さらに郵政大臣にもなるこの人物は、南千束にいとなむ関東精器(会社)の行員寮を。無償で土佐っぽ学生らに提供する。昭和21年のこと。すなわち「土佐寮」・・・。
建物の老朽によって、昭和27年、三鷹市牟礼(井の頭)の明治生命社員寮を買い取り移転、現在にいたる。移転前には、土佐協会理浜田幸雄氏の応援を得て、寮生自ら募金活動をした。ときの総理大臣吉田茂、極洋捕鯨社長・山地土佐太郎その他の高額寄付もあった。
じつはそういったことは、『土佐寮井の頭移転50周年記念誌』のよって確認した。ごく最近、わざわざこの資料を送ってくれたのは、枦原宏輔はぜはらこうすけである〜〜〜

2004.5.10 高知新聞 月曜ワイド 夢は今もめぐりて 昭和少年誌55回 嶋岡晨(詩人・窪川町出身・町田市在住)より抜粋
〜〜〜その朴原が、一別以来じつに五十余年ぶりに音信をもたらしたー「土佐育英協会理事」の名刺や手紙に『土佐寮井の頭移転50周年記念誌』をそえて。「高知新聞の『夢は今もめぐりて』をたのしみに読みよるが、しっかり書いてくれよ」というわけだ。3年ばかり前、脳梗塞で倒れ、かるい失語症ーとの報告もあり、あの世話好きな活動家のハゼが、と感慨を覚えた。「おんちゃん会」のホームページによるプリント十余枚も付いていて有り難かった。〜〜高知新聞<閑人調>でも紹介されたそうだから、ご承知の方も多いかもしれないが、〜〜〜
(縦34cm×横22cm・7段のなかに、このHPの、写真部分頁が紹介された・その説明文である)
土佐寮OBたちの集まり「おんちゃん会」、東京で開かれた土佐寮井の頭移転五十周年を記念する式典の模様などが掲載されている。

2004.8.9 高新 夢は今もめぐりて 67回 --- 父の事務所が須崎に設けられ---(いま、はっきりした町名・地番などわすれているので)須崎市中町にお住まいの森美沢さんに手紙で相談し、調べていただいた。平成16年3月3日の高知新聞「熟年ポスト」欄に彼女の投書が出ているのだが、「マーキュリーの杖」をめぐって、師・影山次郎や詩人横山青娥を回想し、あわせてわたしに声援を送るといった内容。<おんちゃん会>のホームページで「主婦71歳」(嶋岡さんとは同年齢頃か嶋岡先生の同期生に枦原のおんちゃん=私は1期したの戌とし生まれ)ということもわかり、あつかましく手紙を差し上げたのだった。---

リストマーク 項目1 おんちゃんタイムス創刊号(昭和53年8月12日)より

  砂土原町土佐寮の回顧  三浦直彌  昭和7年卒・平成15年御他界 高知市

私は昭和4年から7年までの東大卒業時迄在寮していたものである。会長からたっての依頼があったので、あれこれ当時の思い出を綴る。

当時の世相は浜口緊縮内閣の下に不況のどん底にあり(今の不況とは比べ物にならない)「大学は出たけれど」の標語が流行し、嘗ての「学士様ならお嫁にやろか」の時代ではなかった。
昭和6年には満州事変勃発し、やがて五・15及び二・26事変を経て、支那事変勃発の胎動を始める前夜であった。併し巷には枯れすすき・島の娘・君恋し等の流行歌が氾濫していた。
場所は市ケ谷の高台にあり、元は山内侯の別邸であり、周囲は閑静な屋敷町であり、鍋島侯爵邸、傍系の山内男爵邸や神楽坂へゆく途中には男爵穂積重遠教授等の広大な邸があった。当時は各種の官公私立の大学生及び専門学校生を合わせ約40名位を、選考試験を経て収容していた。寮は新旧各二階建ての二棟から成り、西側にそれをつないで炊事室、娯楽室の平屋建てがあり、東側には二階建ての外来或いは上京者の宿泊所があった。

入寮1、2年間は相当朽廃していた旧館におり、古くなるに従い新館の鍵のかかる個室が与えられた。中庭は広場になっており、ちょっとした軟式野球等やり、よく窓ガラス等を割ったものである。
運営は舎監は通勤していたが、総て学生の自治組織で行われ、総務、炊事、運動等の各委員を選挙で専任し1学期位の任期で交替していた。先輩の学生担当理事には当時七条弁護士とか山田次郎氏(逓信次官となる)濱田幸雄氏等が良く面倒を見てくれた。
炊事は賄婦を二人雇って宿泊させ、炊事委員の献立により月額食費が24(5)円位で、1ヶ月40円くらいでつつましい学生生活ができた。其の時分、本郷あたりに下宿すると月60円位かかっていた。そのため家庭の裕福でない学生が多く土佐協会の貸費生が多く、筆者もその一人であった。只、春秋2回の2泊3日位の旅行を一同でやり箱根や塩原等へ行ったのが愉快な思い出になっている。

多数の学生がいたので、必然的に在京の土佐学生会や県人会の中心的な役割を果たしていた。
また、娯楽室には、碁・将棋・マージャン等が備えられ相当広い道場又大広間もあり、良く柔剣道や卓球の会等もしたので、外部の学生が土日曜等はレクリエーションの遊び場の様に心得る友もあり、勉強は余程意志が強くないとなかなか出来るような環境ではなかった。
只、寮生活者の連帯感が強く仲が良く、卒業後も現在でも親しく交きあっているのは所謂一つ釜の飯を食った寮生活者に多い。

只、幸か不幸か10分位の所に神楽坂の歓楽街があった。現在の寂れた神楽坂と違い、赤坂・新橋の高級街につぐ、神楽坂・道玄坂と並び称せられたにぎやかな歓楽街であり、飲み屋、寿司屋等が軒を並べ夜店、露店等で賑わっていた。又、その裏通りは芸者屋やその置屋が狭い路地でひしめいていた。
灘のコモカブリを並べてある一杯屋でも正一合20銭位、1膳飯屋でもその位であった。酔った紛れに未分不相応に芸者屋に一泊してもビール付き朝食付きで10円位であった。よく朝になり、金がないので請け出しにきてくれとのSOSの電話をかけてくる豪傑もいた。
ついでに書いておくが、新宿の女郎街も余り遠くなく「割部屋で廻し」のお女郎が時間買いすると2円位で、これは手軽なのでよくグループで通ったものである。
段段話しが落ちてきて差し支える方もおると思うので此辺で筆を置くことにする。



  井の頭移転の頃 櫨原宏輔

私は昭和26年に入寮した訳ですが、当時の寮(千束寮は寺尾豊先生の経営していた関東精機の工員寮で、学徒出陣していた先輩が復学してきたものの、砂土原町の寮は焼けて無く,無理に頼み込んで住み始めたもの、と聞いている。入寮した時の寮生はたしか18名くらいだったと思う。

寮移転の理由は、ひとつは前記のいきさつから、寺尾先生のほうへは借り賃も払っていなかったということ。また寮生も酒を飲んでねー。
話しは変わるが、寮は当時11時が門限で、これがまた随分厳しくて,門限になるとカネが鳴る。それで門限に1分でも遅れると、臨時例会を開いて退寮動議をかけるという具合で、酒には寛大な反面、寮生活では大変厳しい所もあった。(井の頭寮に移った後も数年は、例会は制服着用であった。私は,宿泊生で受験のため2月に上京し、其のまま入寮が許可されて、井の頭へ移転した。筆者追記)ーそれで、寮で飲んだ時なんか、10時・11時になると先輩から『全員2階へ集合』『窓を開け』と号令がかかり、そうしておいて次にどうするかといへば、窓の向こう,丘の上の寺尾先生の家へ向けて"寺尾先生の馬鹿野郎”と怒鳴ったこともある。まあ、いま考えてみれば逆説的な親愛の表現じゃたったろうかねえ。

まあそれが原因で出て行けという訳ではないが、そんなこんなで、タダで住みついちょったということで、育英協会としても濱田先生を中心に何とかせにゃあいかんという話しもありよったということで、たまたま27年に井の頭の方に明治生命の寮で元三浦将軍のお屋敷じゃったところが、当時の金で450万円で売りに出ちゅうという話があり、育英協会理事会でそこじゃということになった。あちこち奔走し、結局県から200万円出してくれる。あとは東京で集めなゃいかんということになったのです。250万円とは今の感覚で言えば三千万、あるいはそれ以上の値打ちじゃったと思うが、寮生は募金の実働部隊ということで、春休みも返上で2ヶ月間、県出身の先輩方を、濱田先生の紹介状と芳名禄を持って寄付集めに回ったわけです。寮の黒板に毎日の募金額と累計額を記入していって、日一日と目標へ近づいてゆくのが何ともいえず熱気をはらんで、東京中を駆けずり回る原動力になっていたと思う。

総ての手続きも済んで井の頭へ引っ越したのは、(昭和)27年の5月だったと思う。

移る前日か前前日だったかには物置小屋などを壊して,裏の畑で前代未聞の大ファイヤーストームをやりました。勿論酒はつきもので、火を中心に裸で踊ったが、畑のことでもあり、順に輪を広げて行くうちに、全員、肥料用の便壷の中へ踏み入れて、まあ皆惨憺たるものじゃったが、其のときは酒もはいっているし意気軒昂、引き続いて千束の人々に今まで世話になった礼に行くぞという訳で、臭気紛々たる状態で練り歩いたことじゃったです。

さて、当日は、片岡さんという、協会の理事で当時国鉄の自動車局長をされていた方のお世話で、国鉄のトラックを無料で廻してもらいました。地元の人々には、カネと太鼓を叩いて別れを告げ、井の頭まで来たら先発していた寮生が自転車で迎えにきて先導する。其のときの井の頭の森の若葉の鮮やかさ、木漏れ日のチラチラするなかを意気揚揚と往く気持ちの昂ぶり・・・。終生忘れ得ぬシーンとして今でも脳裏に焼きついています。
新しい寮に移り、容れ物が大きくなった関係で,27年には結局倍近く入寮を許可したと思う。<HPの筆者はこの時に入寮>

寮としては非常に家族的な雰囲気で、まとまりも良かった。役員は、総務・内務・会計・炊事係りで、完全自治。移転に際しての前記のいきさつもあって、まさに「自分たちの寮」という感じじゃったですわ。移転前後の総務は寺村先輩で,移転の少し前位に中州のおばさんが来てくれたように思います。

井の頭に移ってからの寮生活で思い出すのは、相変わらず皆酒を飲んだことで、大体は北口のヤミ市周辺で、太宰治のなじみの店だとか、「よさこい」という高知出身の店なんかへよう通うたものです。また、裏の玉川上水は春になると身投げがあって、人命救助で何回か感謝状をもろうたこと、それと、毎晩飲んで騒ぐのが土佐寮じゃということの両方で、吉祥寺界隈では警察関係のみならず一般市民まで名が通って、おかげで寮生の親兄弟が訪れても道に迷うことが無かったと感心されたことなどですか。

いずれにせよ、未だ戦後の混乱さめやらず、人情も未だ廃れずという時代。寮生活は家族的で、しかも、井の頭移転に自ら随分苦労したという訳で、”土佐寮”に対する愛情も人一倍強い世代が私共の頃だったと思います。



  寮生活と私  別役匠

まさに私の人生に大きく関わったと思われる4年間が始まったのは、47年4月のことです。
私はこの年に、あの武蔵野の面影残る、新旧入り交じった建物の玄関をくぐりました。
このときには、まさか、ここでの生活がこれほどにも、私の人生に、生き方に、大きな変動をよぶとは思いもかけず、東京での生活が初めての私として、不安と、都会への憧憬とが交錯した気持ちで吉祥寺の駅に降り立ちました。

この年は、もうすでにいくつかの都会的な建物が駅の周囲に存在していましたが、私は、ここで都会の限りない勢いを目の当たりにしてしばらくの間、茫然としていたことが思い出されます。

こうして私にとって、貴重な4年間の土佐寮での生活がいよいよ始まったわけですが、そこには確かに、私が大学生活で求めていた何かがありました。周囲から異質な存在として映っていたとさ寮の姿も、何ゆえの異質なのか理解でき、そして、そこには都会の生活では絶対に得られない心の触れ合い、都会の若者には終ぞ見られなかった人間的な結びつきを私ははっきりと確認しました。

それらが今日の、老いも若きも集う、この会結成の原動力になったことは、言うまでもない事実でしょう。今日、200余人の同じ感慨を持った人間達が一堂に集うことは、現代の世相を顧みたとき、一種の脅威ではないでしょうか。

4年間の寮生活の思い出は、文字通り、枚挙に暇がないほど有ります。しかし、そこには一貫して存在していた若者らしい気概はまさに土佐人気質であろう。本来の上下関係に支えられた団体生活は、まさに私にとっては「水を得た魚の勢い」でした。それぞれに様々な先輩がたがいて、一日一日が、否、一時間一時間が人生の縮図を見ているような気さへしました。ある者は酒を飲み、法律論を論じ、ある者は夜を徹して恋愛のままならぬことを嘆息し、ある者は一人静かに机に向かう。これら瞬間瞬間はほんとうに輝いていました。

現在、社会人として故郷高知で生活している日々、あの土佐寮での4年間の人生は、文面に記しているいま、私の胸にものすごい勢いで、迫ってきます。それは、ただ単なる東京での生活ということだけにはとどまっていない大きな人生の証です。

私は教壇に立つ身ですが、この私の4年間の生活を生徒たちに時折話してやります。そのときの生徒達の表情はほんとうに生きています。なにが相させるのか。何が魅力なのか。それは一番、土佐寮で生きてきた我々が知っていることだろうと思います。


創刊号の編集後記に曰く
〜おんちゃん会としての鎖の輪。切れるのは簡単です。強固ならしめんための御奮闘を、改めて各おんちゃんに心から御願いしたいと思います。

昭和20年代末 吉祥寺など 20度の焼酎コップ1杯 20円、25度が25円、3本建ての映画100円、ホームランのラーメン25円、ラッキーストライク360円(1$)、ショート300円(1$以下)、時間500円、オールナイト1,000円、アルバイト1日350円(運転800円)、コッペパン10円、外食券米食7円50銭、



当時の寮監 中村 寧 氏

山脇 正隆 氏 2005.1.219 高新 月曜随想;明神慶昌氏 「ある将軍の生涯」 その人物は旧陸軍が産んだ逸材、--(明治19年3月2日、現在の土佐市甲原に生まれた。陸軍幼年・士官・大学校を成績優等で卒業。陸士、陸大とものい首席であった。--ロシア・ドイツ・ルーマニア・ポーランドに長く駐在、--軍事外交官として知られた。---帰国後陸軍次官・陸大校長--大東亜戦争では臨時召集されボルネオ軍司令官・対象に親任された。--巣鴨プリズンでは
2日間の裁判で無罪・ボルネオの占領行政が住民の信頼を得ていた証拠であると思う。--(本県職員・高知市比島町4丁目)。

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