おんちゃん会前頁
 おんちゃん会 第2頁

歓迎 バナー

第3頁へ

土佐寮の思い出 横山隆一 私が市谷砂土原町の土佐寮にお世話になりましたのは、東京高等師範学校の3年生になった昭和16年4月からです。高知を離れ、生き馬の目を抜くとさえ言われた東京に出て、もっぱら学校の寄宿舎に引き止められていた私にとりまして、土佐弁丸出しの生活が送れる土佐寮は、まさに治外法権の確立したした租界的な存在でした。それ以来、満4年間、次第に戦争が激しくなり、ついにあの東京大空襲で北寮も南寮もB29のばらまく油脂爆弾で一瞬にして灰燼に帰したときまで、永らくお世話になろました。その間、一番大きな問題は、地域社会とのつながりも薄く、従っていわゆる闇行為を知らない学生集団の抱く食糧難と、戦争激化とともに、われわれ同僚たちがつぐつぎと入営し、応召し、出征していくという言わば臨戦態勢でした。昭和16年というと、その年の12月8日には太平洋戦争が洋戦争が勃発し、やがてそのうちに2合5勺というわずかな配給米の中に大豆や干鱈が混入されるようにると、お昼の外食も満足に食べられない状態が始まりました。
久しぶりに故郷から送ってくれた小包の中に、ほそかに入れてくれたお米は。神々しいほど有り難かった。ソレを炊いて何人かの友人と腹の虫を抑えていました。東京大空襲の直前も、たまたま届いた荷物の中の米を、灯火管制下の暗い部屋で、荷物の木箱をこわしてたきつめにし、
七輪で燃やしながら鰹節の炊き込みご飯を造りました。それを友人たちとたらふく食べ、気持ちよく眠りに着いたとたんzの大空襲に見舞われたのでした。
私自身、当時東京文理大学化学科3年でして、すでに第一乙種合格もその徴兵を延期され、その前年の8月1日から、大久保にありました第六陸軍技術研究所で、毒ガスの研究をさせられていました。学徒出陣などで、次々と土佐に帰ったり、あるいは出征あれた方々にたいしても、いくらか申し訳の立つ仕事に従事していましたし、他の寮生の皆さんもそれぞれに、やがて先陣にたつ準備に勤しんでいました。軍令部総長の永野修身玄随が寮にいらっしって、私共寮生を激励され、いっしょに記念撮影されたこともあります。
しかい前述のように、昭和20年3月9日の深夜から陸軍記念日の10日未明にかけてのあの無差別大空襲で、寮も鳥有に帰してしまってからは、なつかしい友人とも離れ離れになりました。

 

2005年秋の園遊会に川添裕一郎のおんちゃん(昭和39年卒)高知銀行から昨年より高知市代表監査委員)招待された。(川添洋一のおんちゃん:昭和31年卒:は今上陛下のご学友:修学院大学・皇太子殿下のころ城西館でご会食の報道がまぶしかった)

 2005.7.31高新 青春のマウンド再び(第1回優勝投手・市原隆さん(64)・市原のおんちゃん・土佐高) 全国高校軟式野球(8月25日兵庫)で始球式---土佐中野球部で2年生の時、県選手権優勝を果たしたが、土佐高では野球部に入らなかった。高校1年の6月ごろ「8月に軟式野球の第1回全国大会がある」と---その後、硬式野球部に入ったが途中大部---いま、シャドーピッチングで体を鍛えて晴れ舞台に備えている。左側の写真は同紙(高知市中万々の自宅).
--- 中2から投手、昭和31年全国優勝・全試合を投げきる。05年始球・「ウオー」というどよめき声が彼の耳に達したと聞いた(’05年おんちゃん会役員会・珍々亭2F) --

 2005.8.26 高新 --この日、土佐高の「背番号1」のユニホームに見を包んだ市原さんの始球式前のキャッチボール相手は日本高野連の沸き村春夫会長。市原さんは肩慣らしをした後、観客の拍手に迎えられマウンドに立った。---市原さんが予定したコースを外れワンバンドになったが、打者のバットが空を切った。渾身の一球---笑顔の市原さん−−(写真入り)


東京学生寮にサツキ贈る  夜須町の山本さん夫妻
創立記念事業に役立てて(昭和55年10月14日高知新聞)

「土佐のサツキで郷土をしのび、頑張ってください」と、香美郡夜須町の果樹園芸業の夫妻が東京・三鷹市にある土佐育英協会の学生寮『土佐寮』にサツキ120本を贈ることもになった。同寮が『30周年記念植樹に協力を』と本紙夕刊『伝言板』で呼びかけたのがきっかけで、二人は十月下旬の同寮への移植に備え、サツキの世話に一生懸命だ。
土佐サツキを贈るのは、香美郡夜須町坪井、果樹園芸業、山本進一さん(44)と汰佳(たか)さん(41)夫妻。〜〜『伸び行く若い青少年層のために応援できたら』と〜〜『大盃(おおさかずき)』『栄冠』『紫竜の舞』などを選んだ。二人は今、月末に贈るのに備えてサツキの世話に余念が無いが、『親元を離れ、異郷で学ぶことは大変なことだと思う。土佐のサツキを見て、心を慰め、励ましにして欲しい』と話す。土佐育英協会も『非常に有り難いことだ。土佐寮をサツキの里として学生の良い思い出の場にしたい』と感謝している。

土佐育英協会東京学生寮OBの「おんちゃん会」、同学生寮は平成11年・100周年を迎えた。
昭和17年5月 井の頭寮(現在の寮、当時の地番は、三鷹市牟礼452) 募金450万円 
平成3年3月 東京土佐寮南寮新築、北寮(既設寮)の補修完了(建築施工 轟組) 高知県より助成1億5千万円 800余の賛同募金1億円余

* 土佐寮の変遷1,1899年土佐寮設立(富士見寮)。 2 ,1900年社団法人 土佐協会(会長山内豊サンプルイメージサンプルイメージ景)。 3,1903年市ヶ谷砂土原町寮新築(山内家所有地)。 4,1908年(社)土佐協会総裁山内豊景、副総裁田中光顕。 5,1940年土佐寮と改称。 6,1945年、戦災により土佐寮焼失。 7,1946年土佐寮(洗足寮)。 8, 1952年土佐寮三鷹寮(もしくは土佐塾、昭和33年1957年から財団法人土佐育英協会東京学生寮)。 199年土佐寮100周年を迎える。


社団法人から財団法人になったのは、昭和33年[1958年]

井の頭移転(昭和27年・1952年)の頃

臨海副都心お台場の、「デラックス東京ビーチ」にオープンした「台場1丁目商店街」;昭和30年代の街並みを再現した飲食・物販フロアでレトロな食堂など32店舗が軒を連ねる。「ゆりかもめ」でお台場海浜公園駅下車。問いあわせは、電話03.3599・6500


寮舎を建てた事 (土佐協会会報、再刊第1号、通巻81号、昭和32年5月31日発行)〜〜わたしの東京赴任そうそうに、溝渕知事さん、浜田先生に呼ばれて「学生寮のことも、これは文教関係の仕事に違いないから、三鷹の寮監を兼務してほしい」と話があった〜〜元三浦観樹将軍の居宅であった寮舎は、かなりの広さがあったが、30数名の寮生と数名の職員の起居にはかなり不自由さがありかつ、老朽が目立っているのでなんとかしてほしいという陳情もよく聞かされた。そして、その事を直々はまだ理事長に報告すると、数日後に、「河内君奈針半利に儂と一緒に行ってくぬか、寮を新築し、ついでに寮監の家も建てようぞ」というお話。「建築予算はどうします?」という私の質問には「それは、儂が何とかする」ということになって、わたしはお供をして、その翌日、奈半利の藤村製紙社主坂本宇治私は吉氏宅を訪問し、官材入手の一切、東京までの運送などについて同氏に懇願したことであった〜〜かくして、私は殆ど毎日工事監督として井の頭に出頭、木造2階建ての新寮増築ならびに舎監住居当が短時日の間に完成を見、その新舎監住居に、われわれは後に山脇正隆先生をお迎えすることが出来たのである。〜〜財団法人土佐育英協会として合併統合する直前の社団法人土佐協会の真姿を誤りなく伝える数少ない記録誌ともなっている〜〜〜筆者紹介に「昭和31年4月から38年4月まで高知県東京事務所に勤務、前県立図書館長)とある。
==同氏は後段に既述する昭和40年のおんちゃん会設立の時の館長であった、事務局を図書館内におくことになる。(私はその頃、館外奉仕班長。次の岡崎先生、の次の次の館長である)==


東京学生寮HP


(私にも同意できる記述内容と事実が記載されている、その8pに)〜井の頭移転(昭和27年、確か5月)時に撮影した記念写真の中の寮生はなんだかとても誇らしげに見えます。戦後の住宅難や食糧難を共にした仲間意識がそうさせたのでしょうか。また、自分たちが実際に募金活動をして集めたお金が井の頭寮設置資金の一部に使われたという自信からでしょうか。この頃の寮生は非常に和やかで家庭的でした。〜
〜昭和33年、経済企画は、〜工事中
                            おんちゃん会 2頁へ

名付け親の個人名は不詳である。「おんちゃん!」と、はじめて呼ばれた18歳の初感動が想い起こされる。
あとでわかったことなのであるが、この「おんちゃん会」という名称で親睦をはかっていたグループは、ほかにもあった。
ずいぶん以前より、あったのであろう。何十組かが、何百回ともなく、どこぞで開いていたはずである。
この会は、昭和40年4月3日に発足した、20数名の元グループが核になっている。現行のおんちゃん会は、その後、組織はおおきく・堅く・しっかりしたものになっていく。

そもそもは、県外から帰郷の寮OBが櫨のおんちゃんくへ来るおりごとに、飲み会をやった。往時をしのび、盛大に飲り、舞った。
昭和40年4月3日、「土佐寮高知OB会」(通称おんちゃん会)として、「葉牡丹」で会をした。理事長に櫨原宏輔さんを推戴し発足。規約に曰く(市原のおんちゃん起草)「本会は、大学卒業後自己の社会的使命を自覚して、高知県に在住し、郷土のあらゆる分野で活躍する土佐寮OBが寮生活の信義と友情の理念を維持発展させてその精神的支柱を確保し、もって知性の開発と友誼の高揚に努め、連帯と共同の生活利益を追求するとともに、大学教育の成果を生きた実践の中に活用して、郷土の綜合的な発展に寄与することを目的とする」「
定時総会は毎年2回、4月と10月に召集し〜すべて寮歌の斉唱でこれを始め〜とした。その後、市原樟夫・山崎聖彦。寺田洋二郎・川添裕一郎君と引き継がれてゆく。その晩、私は船で土佐清水市へ赴任。翌年、に市原のおんちゃん(兄)は、清水で嫁とり。友人代表で祝辞(いわゆる幡多方式の盛大なる披露宴であり、聞く人は新郎・新婦)。
この頃は、毎年のように会をやった。

昭和30年代に東京事務所に勤務していた河内達芳さん(1時期、寮監)が、県立図書館長として着任されていたので・昭和51年に(私も偶然そこに勤務していた)、事務局をそこへ置き、寮母・中須のおばさん(中須七女子さん)の24年間勤務して退職したのを機に、感謝する会をうちたて、「ささやかながらの微意を表するため記念品料」のとりつぎを、実行します。
櫨原宏輔のおんちゃんを会長で、52年12月20日を締め切りにして、募金にはいりました。送金先は、東京の福島のおんちゃんの口座。有志発起人高知:櫨原・冨田・真城。大阪:藤崎・船本。東京:野町・福島・久家・小路・矢野・高橋のおんちゃん。


名簿もおいおいと整備され、珍々亭の常連の一人であった川崎のおんちゃん「大きい総会のようなものをやっては如何か、みなもそう言いゆうですが」の訪問もあったし、酒豪会(新しく卒業して帰高するOBは、みな、この会に入っていて、力強い一派をなしていた)もあり、ここらで、年度の枠を外し、例えば砂土原寄宿舎の先輩にも御参加いただきたいし、というようなことで、昭和52年8月19日・25日珍々亭、9月8日スプーン、9月14日の会には初代会長谷村健助のおんちゃん参加;幹事、櫨原・冨田(兄)・市原(兄)・藤田・川崎・長崎・前田・和田・土居・松村・山崎・真城・清水で「おんちゃん会」を中興、さらに年代を超えて糾合<5,000円の会券(川崎のおんちゃん制作)を販売、新規約は山崎のおんちゃん起草、10月4日はりまや町「十字路」、150人を目標にしたが126名の参加の10月12日得月楼で、土佐寮「おんちゃん会」設立総会

規約は七章で全8条「会員の親睦を図ることを主たる目的とし財団法人土佐育協会および郷土の総合的発展に寄与するものとする」とした。
「そろそろ(人の)世話ができる年代になったし(土居篤さん)」「みんなの子供も大きくなりゆうし(川崎博道さん)」---の発言が、いまも嬉しく耳に残っている。
初代役員は、知事が名誉会長。名誉顧問に河内達芳・小笠原喜郎、会長谷村健助、櫨原幹事長、順不同で清水康文・藤田至誠・市原樟夫・山下正作・田中高光・長崎俊太・前田純彦・真城敏之・土居篤・川崎博道・山崎聖彦・宇賀茂興・上村雅志・川谷孝海・松村勝喜・和田脩・冨田哲郎の各おんちゃんがた。


「おんちゃんタイムス」は、山崎栄三・松村勝喜の各おんちゃんの手で発行されていった。(写真入・活字・岩神印刷ほか)
昭和57年の「おんちゃんタイムス」第5号に『〜中須のオバサンの記念品贈呈は東京の福島昭雄君を中心に推進されたし、井の頭30周年記念事業は、当時学の寺村斉君・中村元彦君等の努力の積み重ねで56年、東京の井の頭で盛大挙行された。
この5年間は、育英協会の土居増喜氏の格別のご熱意に負うことが多く、この機会に感謝と敬意を表する次第です』と書いた。


その後、事務局は、図書館から昭和58年より珍々亭へ・さらに情報ビジネス専門学校へと、移り、現在に至る。役員も、うえの面々のほかに、西沢弘順・松本貞純・寺村(現、山地)斉・佐竹茂市・西川武雄・桑尾和志・大城戸淳二のおんちゃん等等をむかえいれ、入れ替わり、発展している。まことに、ご同慶至極なり。
                   
     ライン


昭和52年11月13日高知新聞(東京支社)
〜土佐寮おんちじゃん会の東京支部結成大会が12日東京・西大久保『きた井』で開かれた。
土佐寮は戦前戦後を通じて本県出身者の学生たちを受け入れ世話をしているもので、去る10月12日には高知在住の"出身者”たちで『土佐寮おんちゃん会』が正式に発足している。

同日の結成大会には、高知・大阪の土佐寮関係者、首都圏在住の出身者ら35人が出席。席上、昭和27年から51年まで学生たちの世話に当たった元同寮職員、中須七女子さん(58)=世田谷区代田5丁目2-20、大場方=に同会有志で慰労金100万円(1口5000円)を贈ることを決め、全国の土佐寮出身者たちに寄付をよびかけていくことを申し合わせた。<学生2名参加、知事より祝電有り、名簿は46名あった>

大阪は、同昭和52年12月14日梅新「大東楼」で7名参加。<10名、連絡がとれた>

有志発起人 高知 櫨原・冨田・真城、大阪 藤崎・船本、東京 野町・福島・久家・小路・矢野・高橋


井の頭寮 三十周年記念事業 昭和57年5月29日(土) 三鷹市井の頭五丁目16−21
記念碑(「万里横行」←浜口雄幸先生の教訓)の設置、記念植樹(山桃・土佐ミヅキ)、「土佐寮」看板の設置、記念誌の編集、環境整備と図書の充実)、記念式典(午前11時より)
寺村のおんちゃん お疲れ様でした。


リストマーク 項目1 昭和54年入寮案内文
当時の、おんちゃん会幹事に発送。高知県立図書館1Fに掲示。(さて、武田のおんちゃんか寺村のおんちゃんか三谷のおんちゃんの作品か?)

本学生寮は本来の歴史を創造する若人として進歩してやまない社会にあって平和を願い学問に励み心身を鍛えもって人格を陶冶すべくより充実した自由なる寮生活を享受する。
期待と不安の入り混じった東京での学生生活、暖かな親元を離れて、下宿、アパートと思っている君に緑と活気に満ちた「土佐寮がある」。「土佐寮」は70人の団体生活。
都会での淋しい一人暮しをするよりは、土佐弁で話せる友と高知と変わらない自然がある「土佐寮」と最後の学生生活の4年間、青春の一頁に。

  特色
我寮は自治寮であり育英協会より寮内部の運営はすべて学生の手に委ねられ、自由を享受することができます。しかし、自由ということは、同時に個人、個人責任があり、自由を守り育ててゆく努力が必要であります。
寮生活の人間関係は時には肉親以上のつながりを持ちます。友に同じ立場におかれている人間の集まりであり、喜怒哀楽を共にした人間関係は人生の縮図というべきものがあります。よって我寮は、アパート形式ではなく純粋の「寮」である、
高校生活の延長としてではなく一人の大人としての意識を持つ学生生活である、

  生活様式
寮は旧館の二人部屋の6畳と新館の一人部屋の5畳がある。1年のうちは寮に馴れるため、二人部屋ですが学年が上になると一人部屋になります。
朝晩の食事(朝食7:00〜9:00、夕食5:00〜8:00)を業者の方にまかせてあります。昼食だけ外食となりますから生活費の大部分を占める食費が助かりますから親の負担も少なく、確実に栄養がとれま、また、多くの違った大学の人々が集まっていますので色々な話しが聞け、役に立ち社会に出てのプラスになります。

  年間行事
4月 井の頭公園で花見・定期総会・親睦会   
5月 ソフトボール大会・寮祭・合同ハイキング  
8月 よさこい大会  9月 定期総会                
10月 ソフトボール大会
11月 合同ハイキング
12月 冬の寮祭(もちつき)
1月 新年会(成人式)・卒寮式


故初代会長谷村健助さんのお便り(一部分)

会員の皆さん 新年お芽出とうございます。昨年10月12日には各年代の幹事さん達のご協力により土佐寮のおんちゃんから若いひとまで予想外に大勢集まりました。土佐育英協会理事長の高知県知事中内力氏を迎えて盛大に発会することができました。〜考えるに、若かりし日、中須のおばさんにお世話になった面々の感謝の会が結集された潮時がおんちゃん会の原動力になったことは誠にうれしく うるわしい発会の端緒であったと考えております.大正の初期から市谷砂土原町における土佐協会寄宿舎以来60年以上の長さに亘り、幾多の人材が育ったのであるが、連絡の中心さえ無いまま今日に至ったことは、今顧みて不思議なくらいである。東京、大阪の土佐寮おんちゃん会の呼応により更に一段ときずなが強くなりました。ご同慶の至りです。願わくば、新年にあたり会員各位のご飛躍を期待する次第であります。


学生寮生に贈る言葉 
 昭和56年 土佐育英協会編 一部分抜粋 順不同

谷村健助 おんちゃん会 初代会長 元県教育委員
スポーツや趣味のうち、道のつくものを選び、ある境地まで努力すること。並びにバランスのとれた真の健康追求とリラクセイションの境地を会得することは、悟りに通ずる道である。一方創造性の極地は即人間の悟りである。

滝本実春 土佐育英協会理事 元満州国長春県副県長 平成18年3月6日ご逝去102歳
天と親から授かった自分の身の内に,利己的個人本能と愛他的社会本能がある。
利己を離れて,他人・社会・民族・国家・世界をあいする人が真人間である。
高知高校(旧制)の初代校長江部先生が「感激なき人生は空虚なり」との名文句を残したが、この感激は愛他の境地に潜んでいる。

小笠原喜郎 元防衛庁調達実施本部副本部長 元おんちゃん会顧問
よい環境と伝統に育まれてきた寮生のみなさん。とくに上級生の諸君。
エリ−ト意識は清算されていますか。
体力があり,職務に習熟し,少数ではあるが信頼する部下をひきつれ、自ら先頭に立つ勇者、そして、全軍に勝利をもたらす「鬼軍曹」。私は若人達にこの心意気を望んでおります。
大人物に成長するのはそれからでも遅くありません。

河内達芳 元高知県立図書館長 元おんちゃん会顧問
日本語は世界唯一の表意文字である漢字でその本意を表す。端も基本的な勉学目標がこの漢字の習得理解だと私は考えている。

西本澄雄 元高知県文教協会理事長
あと19年で21世紀。歴史の節を迎える。君達は造りあげられた世紀で育ってきたが、今度は君達の世紀を自らの手で作らねばならない。
日本をどんな国にするか。その中で自分はどのような役割を果たすか、無縁のことでもなく、遠いことでもない。

中村哲男 元副知事
先ず健康 常に礼節を尊び 事を処するに当たっては 誠実を宗(むね)とせよ

高野精一
 元高知県教育次長
「一点の素心」、これは16世紀末、今から約380年ぐらい前、明の洪自誠の随筆集『菜根譚』の中の一節である。
「友と交わるにはすべからく三分の侠気を帯ぶべし。人と作(な)るには一点の素心存ずるを要す」とある。
素心とは、純潔不動の心、清らかな心、まことの心である。

上田愉左恵 元土佐婦人会理事長・保護司・民生委員
私の要望する人間は、正直で意志が強く、勇気のある人の一語につきます。

和食延雄 元県教育長・副知事
自己を大切に見失うな。情報化社会では選択(よりどころ)に迷いが多い。他人を真似た画一化した生活に陥り易い。複雑な社会だから一人では生きていけないが---。
高い目標がすべてではない。そこに至る過程こそ大事。



リストマーク 項目 井の頭寮創立30周年記念事業を終えて

昭和57年10月5日 三宮文仁(在寮生・おんちゃんタイムス第5号・昭和57年10月16日)

〜30周年記念事業として、記念碑の設置、記念植樹、「土佐寮」の扁額の設置、記念誌の編集、記念式典などが行われたわけですが、30周年委員が最も力を入れ頭を悩ましたのは、やはり記念誌の編集でした。
記念誌の構成は、大きな骨組みとして、現在の「井の頭寮」の姿と、土佐同志会の発足から現在に至るまでの土佐寮の歴史との二部に分かれています。〜最後に,寮監先生はもとより、土佐寮概説を中心に記念誌の編集を最後まで指導くださった寺村(現、山地)斉先輩や、OB諸氏,関係各位に感謝の意を表します。


ライン

   創刊号 昭和53年8月12日

発刊に寄せて 会長 谷村健助   編集 山崎栄三 松村勝喜

『大きな忘れ物をしていた』というのが実感である。
通常ならフトしたことでと出そうなところであるが、関係者にしてみれば決して層ではない。聞けば、中州のおばさんを主人公にした当時の学生諸君の美わしき物語りが唯一のキッカケとなり、土佐寮おんちゃん会の生まれる端緒となったものである。よくもこんな愉快な会ができたものだと誰言うとなく聞こえてくる。(中略)
〜当時、兄弟のように親しく付き合ってきた宇田道隆君よりの最近のハガキ通信。「砂土原の誰彼れ如何に夏の月」 はるかにおんちゃん会の万歳を唱え 昔の懐かしい寄宿舎のことを思いつつ ヂンマになったわが身を顧みて 感慨無量 皆様によろしく伝えてください。
(中略)第2回総会にあたり、軽い夏向きの読み物をはじめることになった。これで土佐寮おんちゃん会の紐帯が一層強化されることを期待して発刊の辞に代える次第で有ります。<創刊号の続きは次頁へ、お楽しみに>


創刊号の編集後記に曰く <おんちゃん会としての鎖の輪。切れるのは簡単です。強固ならしめんためのご奮闘を、改めて各おんちゃんに心からお願いしたいと思います>



2000.8.10TV画面を撮影


TOP

次頁